吉村昭『三陸海岸大津波』

 フェースブックで知って、アマゾンで買った。
 購入時に50位。売れている。


 『戦艦武蔵』や『関東大震災』で名高い吉村昭が、明治、昭和、そしてチリの三度にわたる三陸津波を掘り起こしている。昭和45年(1970年)の作品だ。


 明治、そして昭和の津波の記録を読んで、なんとも無念なのは避難が十分ではなかったことだ。地震のあと、津波がくることは、知られていた。にもかかわらず、油断した人々が波に飲み込まれてしまった。


 昭和8年の津波は3月3日の夜だった。
 不安に思いながらも、風邪を引いてしまっては・・・と布団に戻った人もいたという。実際、逃げ延びたのに、寒さで凍え死んだ人がいた。だから、避難を怠ったと軽々しく言うことは出来ない。しかし、すぐに逃げていれば津波には飲み込まれなかったことを思うと悔やまれる。


 この本の最初では田老町に住む明治三陸津波の体験者、中島安右衛門を訪ねる挿話が書かれている。
 この時、標高50mにある中島さんのお家も津波に襲われたという。
 同行されていた村長は驚きの声をあげたという。「ここまで津波が来たとすると、あんな防潮堤ではどうにもならない」。


 あんな、と書かれているのは、かの有名な田老町の防潮堤だ。
 それでも、当時から防潮堤が絶対安全と誰もが思っていた訳ではないことがわかる。


 実際、昭和43年の十勝沖地震のあと、田老町を訪れた吉村は、その時の町の対応がいかに素早く徹底したものだったか、書き記している。津波は防潮堤を越えることはなかったが、避難の呼びかけは徹底していたそうだ。


 本の最後は、明治、昭和、チリの三度の大津波を体験した早野幸太郎さんの次の言葉で締めくくっている。
 「津波は、時世が変わってもなくならない。必ず今後も襲ってくる。しかし、いまの人たちは色々な方法で充分警戒しているから、死ぬ人はめったにないと思う」。


 残念なことに、この言葉どおりにはならなかった。
 田老町も、今回は油断があったのだろうか。
 たとえば産経新聞によると「今回の津波はその防潮堤を越えて地区を破壊した。避難した人たちは「防潮堤があるので油断があった」と話している」と報じていた(http://sankei.jp.msn.com/region/news/110317/iwt11031702160000-n1.htm)。