小田実『何でも見てやろう』(2)

近代主義礼賛



 今日も原発事故のニュースが続く。
 原発立地の是非をめぐる住民投票を中止した串間市の野辺市長は、投票について「安全性が確保できるまではやるべきでない」と説明したとのことだ(http://mainichi.jp/area/miyazaki/news/20110315ddlk45010481000c.html)。


 逆に言えば安全性が確保できたらやりたいと言うことなのだろうが、想定した範囲内で安全とはいえても、予期せぬ大災害が襲ってきたり、信じられないヒューマンエラーが重なったら、「それは想定外だ」と言われてしまうと言うことだろう。


 僕は原発が絶対安全でないから反対という積もりはない。
 世の中に絶対安全なんてものはないのに、絶対安全といった途端、その枠外の事態に備えることをしなくなる。それが最大の問題だと思う。

 
 さて話を戻そう。

 
 阪神淡路大震災の時、小田実区画整理など、行政の復興施策の非人間性を厳しく批判していた。
 では、『何でも見てやろう』のころは、どうだったかというと、近代主義の礼賛者だった。


 「わがあこがれの摩天楼を最初に見たときのことを書いておこう。その第一印象は、意外なことに、えらくみんな古びてやがるな、苔むしてやがるな、というのであった。失望ではないにしても妙なかんじであった。真っ白い「近代建築」がピカピカ窓を輝かせて目白押しに並んでいるのかと思っていたら、そんなではなかった。古ぼけた婆さんの葬式行列みたいなのが、ひょろひょろと並んでいる。私の期待を満足させてくれたのは、国連ビルとパークアベニューに最近建ちつつあるニュー・モードのガラスのやたらに多いピカピカの建築の群れであった」(p183)。


 「テキサスの原野のなかにぶったてられた、いや、今もなお、ぶったてられつつある大都会ダラスやヒューストンの「若さ」については今さら言うまでもない。中西部の古い鋼鉄の都市ピッツバーグはニューヨークのマンハッタンのように、河の中州にたてられた都会なのだが、その中州の先端のところにあったスラム街を完全にぶっつぶして、そこに、まさにピカピカ光る最新式の摩天楼をおったてる。スラム街の住人のほうは、郊外の住宅地のほうへ近代式アパートをたってそこへ移転をお願い申しあげる。計画はまだ全部完成したとは言いかねるが、うち見たところ、すでに「鉄の町」というコトバからはまったく想像できないような、きれいで美しい小型ニューヨークになりかかっていた(ほんもののニューヨークの印象のほうは、一口に言うと、汚く、そして美しい)。そこには「若い国」アメリカの夢がよい意味で十分に働き、また、その夢を可能にさせるだけの富のうらづけがあると見受けられた」(p185)。


 1958年といえばジェイン・ジェイコブスが『アメリカ大都市の死と生』を書き始めた時だ。その時に、この脳天気さは、どうしてだろうか。


 これは、小田さんが「大きなことは大好き」という特殊な人と言うわけではないだろう。
 当時の日本のインテリは、近代主義の描く世界、コルビュジェの輝く都市だの、丹下健三の東京計画だの、鉄腕アトムの未来像が何の疑いもなく信じていたのだろうし、僕のような子どもも、そうだった。世の中がそうだったのだ。


 そして50年後の今、多くの人が修復された建物に、むしろ美と歴史を感じるようになった。
 それもまた、一つの時代の精神なのかもしれない。


(おわり)


 注:
 小田実が見たのはピッツバーグルネサンスIという再開発だろう。
 その計画により「一九六六年までにピッツバーグ全体で、少なくとも五四〇〇世帯にも及ぶ住民が「追放」されたと見積もられている」(立石芳夫、http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/99-1/tateishi.htm)。その結果、官民パートナーシップによる再開発を支えていた財界や労組と無関係な近隣重視の市長を生み出すほどの反動を呼んだ。
 だが、その後、近隣政策はCDC等に任せ、官民パートナーシップに融和的な市政が誕生し、ルネサンスIIを経て「企業の管理中枢機能の高度化やきらびやかな消費施設の拠点づくりには、大きな到達点を示し」(立石)とされている。


(おわり)


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