季刊まちづくり29号、いよいよ印刷(1)



 季刊まちづくり29号も、いよいよ印刷だ。
 校正段階だが、集まった原稿を読ませて頂いた。そのなかから巻頭対談を紹介したい。

広原盛明×西村幸夫対談

広原盛明さんって、誰?

 最初に聞いたとき、う〜ん、いまさら広原さんかと言ってしまった。
 だが、ますますパワーアップというべきか。さすがに時代を生きてきた人は違うと思わせる対談だった。


 ところで、広原盛明さんを知っているだろうか。


 京都では、「いまさらLRTなんて言ったって、市電を撤去しておいてなんだ!」となるところがある。その市電撤去反対の先頭に立っていたのが広原さんだ。
 また、神戸の住民参加のまちづくりの先駆けと言われた丸山地区、そして真野地区での研究、運動支援がある。震災後は、京都府立大学学長という肩書きを持っておられたこともあって、様ざまな場面で活躍されていた。
 ある報告会で、神戸市を責めるのではなくて、みんなで国に筵旗を掲げて訴えようといった趣旨のことを言われていたことが記憶に残っている。


 そして近いところでは2004年の京都市長選への出馬がある。
 共産党が中心の「民主市政の会」の支援を受け、選挙母体「2004春・京都市民ネットワーク」から出馬し、共産党をのぞくオール与党体制の桝本頼兼氏に闘いを挑んだが、敗北した。


 当時、国立の景観裁判が話題になっていたこともあって、景観破壊のマンションをどうするのか、という議論が一つの争点であったことは確かだ。


 その数年後、選挙では明確な方向を打ち出していなかった桝本市長が、新景観政策に乗り出した。そのとき、広原さんを支えた市民ネットワークの中心を担った中林浩さんが、京都市役所前勝手連的に市への応援演説をしていた。


 一方、広原さんはブログでデザイン規制について批判していた。

京都の景観政策の意味

 さて、その景観政策だが、広原さんによれば、大きな転換ができたのには、第一に、京都の財界が京都ブランドの価値に目覚めたことが大きいという。「大阪の場合は東京に進出してから海外に出るが、京都の場合は直接に世界へ進出したい。そのとき自分たちの商品や技術のバックボーンとしての京都ブランドを確立したい。外来資本の投機対象になって京都の価値を下落させるのは非常にまずい」という判断が共有されたという。


 第二には最初は反対していた町場の工務店が、市が小規模建築物については妥協したので、賛成に転じたことだという。「マンション建設が抑制されるために、町場の一般住宅の建て替え需要が増えて、自分たちの商売ができるようにな」るとソロバンをはじいたと言うわけだ。


 政策が実現できたのは、財界の賛成があったからだということは、これまでも指摘されていた。しかし、なぜ財界が賛成したのか、単なる時代の気分なのか、もうひとつ納得できなかったが、広原さんのこの説明は分かりやすい。


 経済中心の考え方が町を壊したという議論がある。実際、「「地域づくりと景観法」を考える」セミナーの後の飲み会で、小浦さんと久さんが口を揃えて言ったのは「共用部の容積不参入と斜線制限の緩和が町を壊した」という点だ。それが都市づくりを景気回復の手段にした経済優先の政策によることは間違いない。


 が、経済がそんな近視眼的な話しだけではないのは自明だ。
 藻谷さんに広原説を話したら、今頃気づいたのか!?と一喝されたが、まあ、それでも気づいただけ京都は偉いというべきだろう。

続く