特別企画・分かち合いの都市計画(2)

 総有という考え方が都市計画関係の諸制度改革の鍵になるのかどうか、考えてみたい。

総有論では村八分になったときに困る

 昨日、説明したように総有は単なる共有でも空間の公有でもない。「構成員でなければ利用権を取得できないし、資格を失えば利用権も喪失する」という点がポイントだ。


 たとえばマンションの将来のために、みんなが管理組合法人に所有権を譲り、その変わり配当を受けることにしたとしよう。そのまま住み続けるのであれば、賃貸料を払い、管理費を差し引かれて、配当を受け取るのだから何も変わらない。


 しかし、何かの事情で引っ越すとき、どんな人に貸すかは組合法人が決めることになる。
 だから一番高い賃料を提示した人になるとは限らず、また僕の知り合いになるとも限らず、組合の好みによることになる。ただしより安い賃料で貸した場合も、その差額はみんなで負担することになる。
 ここまでは、欧米のコーポラティブ住宅に似た仕組みで、建設に特化した日本のコーポラティブのほうが異例とも言える。日本への導入の壁は厚いが、さほど驚く話ではないし、僕も参加してもよい仕組みだ。


 だが、このような住民が設立した会社が分かち合いの器になるという保障はない。
 株式会社であれば、過半数で建て替えも決議できてしまう。それに応じられない賃貸人は、会社の株主であろうと、なかろうと、押さえ込まれてしまう。

 五十嵐さんが先進例として紹介している高松の丸亀商店街も、上記のマンションと同じような仕組みだ。
 だから五十嵐さん自身、「総有的」と紹介しいるが、所有権はきっちり担保されており、共同体と不可分の総有とは全く異なるものに僕には見える。

総有論では所有の放棄を解決できない

 また、総有は問題提起の眼目である所有権放棄にも対応できないと思う。


 所有権が放棄されるぐらいだから、借り手はおそらくいない。それがたとえばマンションであれば、たとえば総有にしたところで、管理費が入ってこないという問題は変わらない。
 また、消滅してしまった集落に残る所有者不明の家屋や田畑は、誰が総有するのだろうか。
 総有しようにも主体がいない。隣の集落に押しつけるのだろうか。


 総有論は土地利用規制を強めようという時には、精神的な拠り所になるかもしれないし、まだ再生可能性がある土地なら、放棄された土地を行政が没収し、地域主体に再生をゆだねることもありうるかもしれない。
 だが、自律反転が不可能になってしまったら、地域の責任を強調しすぎることは、国なり自治体の責任放棄の容認にならないだろうか。

野口さんの「都市法の改革」

 さて五十嵐敬喜さんの「現代総有論」を受けて、野口和雄さんが「都市法の改革」を論じている。その要旨は、

 1)都市マスタープランを最高規範とする
 2)建築等についても許可制度に改める
 3)都市計画事業もマスタープランに整合すること、一定年限が過ぎて未着手だと廃止
 4)地区計画を創造型に変更する、美の基準を定める
 5)総有制度を導入し、その主体を地区計画の運用主体、都市計画事業の主体となる
 6)土地所有者に限らずすべての市民が都市計画手続きに関与し、提案できる

である。


 土地所有には義務がともなうこと、都市計画の決定手続きに参加するべきは市民であって土地所有者に限らないことなど、共感できることも多いが、なぜ地区計画の運用主体にまで土地の総有が必要なのだろうか。



 一つ、関連してヒントになりそうな本に、山本雅之さんの『農ある暮らしで地域再生』がある。


 山本さんは、この本のなかで田園まちづくりを提唱している。これは農村とその農地を、農業生産ゾーン、農村起業ゾーン、田園居住ゾーン、生活支援ゾーン、環境保全ゾーン、特殊用途ゾーンなどにわけ、計画的に農と共生し農ある暮らしを楽しめる田園居住を進めようというものだ。


 そのとき問題になるのが、ゾーンによる土地売却価格や地代の差が大きいことだ。たまたま農村起業ゾーンや生活支援ゾーンに土地を持っていた人は大儲けし、環境保全ゾーンの人は苦労ばかりでお金にならないでは、ゾーン指定が出来るはずがない。


 だから土地所有者は田園まちづくり公社に土地を賃貸しする。また、都市側のユーザーが金銭出資をしたり、国や自治体の補助金も入れる。そして整備完成後は賃貸に出し収益をあげ、元の所有者に賃料を支払ったり、出資者に配当金を払う。


 ここで重要なことは、たまたまどのゾーンに指定されるかによって生じる不公平を相当程度平準化できることだ。


 また、この事業は一定の手続きによって公的に裏付けられ、土地利用も地区計画や農振法等により規制され、事業や公社もそれに縛られる。


 これを総有と言うかどうかはともかく、単なる所有会社ではかく農ある暮らしを実現するという一定の枠がはめられていると言える。


 このように開発のポテンシャルがあり、それをある程度コントロールしなければ、環境、ひいては魅力をつぶしてしまうようなところで、負担を公平化するには意味のある方法と言えよう。


 しかし開発どころか、放棄地が過半をしめるようなところでどうするのか。
 これについて先日紹介した『撤退の農村計画』「(3)跡地管理の方法」を参照いただきたい。


続く
○注
 このような農村のゾーニングは、たとえば兵庫県のみどり条例などにも見られる。


・2004年度第7回都市環境デザインセミナー「『美しき村』を計画する〜兵庫県緑条例(丹波地域)の取り組みから〜


・金野幸雄「農村地域で景観法を使ってみよう─兵庫県」『季刊まちづくり7号』(2005)


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