特別企画・分かち合いの都市計画(1)

 季刊まちづくり28号、いよいよ発売です。
 アマゾンではすでに発売中。書店でも9月1日には店頭に並ぶと思います。よろしくお願い致します。

現代総有論と都市計画

 28号の特別企画は神野直彦さんを迎え、五十嵐敬喜、野口和雄さんの座談会から始まり、五十嵐さんの「現代総有論」、野口さんの「都市法の改革」という構成だ。


 五十嵐さんの論旨を簡単にまとめると、
 (1)東京一極集中がさらに進み、地方都市は過疎化が進む
 (2)その結果、1)一人暮らしの増加、2)買い物難民、3)商店街の衰退といった問題が起こる。
 (3)その結果、一部では土地所有の放棄が起こる

にも関わらず、都市計画、中でも土地所有権に対する規制は、開発に対する規制でしかなく、土地所有権が活発であるうちは有効だが、不活発、ないし放棄されるような状態では意味をなさない。
 だから、放棄された土地にも対応できる考え方が必要だ、というものだ。


 野口さんは、より具体的に、「土地所有には義務が伴う」という考え方を強化し、また、土地所有者・借地権者でなくても、まちづくりや都市計画に参加できる制度に改めよと説く。


 大きな方向としては、共感できるし、また共感してくれる人も多いと思う。
 特に、日本では考えにくかった土地所有の放棄にいち早く注目している点はさすがだ。先日の季刊まちづくり26号の読書会でも、クリーブランドの放棄地に目をむいたばかりである。日本もいずれ、空き地だらけになる地域も現れるに違いない。
 では総有という考え方は、そういう時の対応策として有効なのだろうか。

総有論とは

 僕が初めて五十嵐さんの総有論に出会ったのは、スタッフの井口夏実さんと一緒に担当した五十嵐敬喜著『美しい都市と祈り』(2006、学芸出版社)だった。
 その「5 土地総有とイザイホー〜神の島の土地所有、沖縄久高島」で、総有論が書かれている。


 そこでは景観をめぐる国立判決などを論じられながら、改革の方向として、社会主義国がとった土地の国有化か、ヨーロッパやアメリカが取る空間の公有化、すなわち「土地はあなたのものだが都市は全体のもの」という考え方をあげ、日本の取りうる道は後者だとされている。


 それは、その通りだろう。しかし空間の公有化は珍しい主張ではない。土地利用規制や景観規制などの延長上にあるように見える。


 では、そもそも土地の総有とは何か。


 教科書的には「総有とは、共同所有者の持ち分が潜在的にも存せず、従って、持ち分の処分や分割請求が問題にならず、各共同所有者は目的物に対して利用・収益権を有するのみで、管理権は必ずしも各共同所有者が行使せず、慣習やとり決めによる代表者がこれを行使する形態の共同所有をいう。わが国の慣習上みられる入会権……のほかにも、慣習上の物権(温泉権等)につき総有の概念による説明が用いられる」(五十嵐、前書、p125、ただし原典は遠藤浩ほか編『民法(2)物権(第4版増補版)』有斐閣)とある。


 そして、「字民の構成員でなければ利用権を取得できないし、資格を失えば利用権も喪失する」のだという(p130)。すなわち共同体が所有しており、持ち分の処分や分割請求もできないので、共同体から出てしまったら権利もなくなるという仕組みだ。
 だから昔の村八分は恐かったんだ、きっと。


 このような非近代的な土地所有が残ったのは、久高島が神の島だったからだそうだ。1926年の地租免税陳情書には、神を崇拝する念が極めて厚く、迷信深く、従って旧慣墨守の遺風が強くて、旧来の法を捨てられないとあったという(p133)。
 また戦後、男たちが土地の私有を決めたときも、土地は古来、女が仕切ってきた、男が勝手に処分する道理がないとひっくり返したという(p134)。


 久高島は今も主婦が神になる島としても知られ、総有の精神は1988年の土地憲章に引き継がれている。かつて薩摩藩の介入以来、琉球政府の解体、天皇崇拝の強制、アメリカ軍による村落共同体の破壊と占領、復帰後の政府と本土資本の介入にも屈せず、伝統を守ってきた。しかし、生きていくために自ら求めたリゾート開発や公共事業が、生き残る条件を切り崩しているという(p147)。


 久高島は魅力的だ。しかし神が生きる島の遺風が、これからの日本を救う考え方になるのだろうか。

続く

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・『季刊まちづくり28号』


五十嵐敬喜著『美しい都市と祈り』(2006、学芸出版社