『「分かち合い」の経済学』


 この本は神野さんの渾身の祈りだ。
 全編に共感できる言葉が溢れている。
 しかし最後は「予言の自己成就」の教えで終わる。「信じるものは救われる」、いや、信じるしかないということだろうか。
 新自由主義に毒されてしまった僕は、悲しいことに簡単には信じられない。

サンチアゴに雨が降る

 神野さんによれば、戦後世界は再分配と経済成長の「幸福な結婚」の時代だったという。重化学工業の発展と、所得税法人税による租税制度が、市場経済を安定化し、社会の亀裂を防いでいた。
 ところが3つのことが起こる。


 石油ショックブレトン・ウッズ体制の崩壊、そして三番目はアメリカが糸を引いたチリの1973年9月11日の軍事クーデターだ。
 この三つが新自由主義の扉を開けたという。


 アジェンデ惨殺の報がアメリカに届いたとき、シカゴで同僚とのパーティに出席していた神野さんの恩師・宇沢教授は、フリードマンの仲間たちが歓声を上げたのを聞いたという。そしてフリードマンピノチェト政権に招かれ、新自由主義に基づく経済政策によってチリの奇跡を演出した。


 アジェンデ政権は戦後はじめて民主的な選挙によって選ばれた社会主義政権だった。軍部やアメリカの妨害にもめげず、その後の選挙でも健闘。暴力に訴えるしかなくなったアメリカと軍部が力で政権を圧殺した。
 アジェンデ大統領は「「民主主義は軍部に降伏しない」と言い残しピストルで自決。その日サンチアゴは快晴。しかしチリ国営放送は「サンチアゴには今、雨が降っています」という声を流し続けていた」。

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/jara.html 「あの人の人生を知ろう〜ビクトル・ハラ」)。
 人びとに街頭に出て、自分の眼で真実を見るようにと訴えていたのだ。


 このときから、虐殺された市民はアムネスティの調べで「4万人」。10万人が逮捕及び拷問され」(同HP)、100万人が亡命を余儀なくされたという。


 当時、だから選挙で戦っても無意味、武装革命だと断言していた友人がいたことを覚えている。
 あのピノチェトに迎え入れられたのが、新自由主義の幕開けとは知らなかった。
 彼等の手は最初から市民の血にまみれていたのだ。

働くための福祉

 もっとも共感したのが、この考え方だ。今までの老後や病気になったときの支え、セーフティネットとしての福祉だけではなく、かといって新自由主義が追求した「働かせるための福祉」でもない。「働くための福祉」。希望に溢れる言葉だ。


 基本戦略は危機の時代にあって、知識社会に舵を切っていくこと。
 そのために、第一に人間の能力を高めること、第二に生命活動を保障すること、そして社会資本、すなわち人と人の信頼の醸成である。


 現状においては、まずは人間の分断に刃向かうことだろう。
 たとえば労働市場の分断を克服するために、同一労働同一賃金社会保障の同権化、そして家庭内無償労働を望まない人の社会進出を保障する、介護などの対人社会サービスを公共サービスとして提供することが必要だと言う。
 とりわけ社会保障を含め同一労働同一賃金、そして正規、非正規を問わない、働くものの信頼感を回復することが急務だと僕は思う。


 しかし残念なことに、昔は家族主義を掲げていた経営者たちも、今はそんなことは甘いと言って退ける。その家族主義を支えていた労働組合は、もともと非正規社員を仲間とは見なしていなかった。家族主義は、いわば「村」の再現であり、5月14日で紹介した広井良典氏がいうように「集団を超えて会話できる普遍的な価値原理」を持たないものだった。

 いわば、僕たちは日本の近代化を支えた家族主義、イエ、ムラ、カイシャを通してクニにつながる日本の社会に変わるべき原理を持たないまま、ただ1人のムラとなって、世界を前にして怯えている。


 だからか、僕たちは世間は誰かを叩くのが大好きだった。
 マスコミと一緒になって、5時前に帰る準備に入る自治体の職員を「怠けもの」と罵り、特権をはぎ取っているうちに、気づいたら、実は自分たちもオオカミに追われる羊だったということか。


 神野さんが言うように、日本の変質は中曽根内閣から始まっていたのだと思う。
 当時、国鉄の親方日の丸体質が散々叩かれていた。
 しかし、国鉄を解体した中曽根・日本が生んだのはバブル。ほとんど創造性のないリゾート開発だけだった。
 まだ借金も少なく、力のあったあのとき、むしろ大きく舵を切るべきだったのではないか。上記の成長と福祉の「幸福な結婚」が失われたことに気づき、知識社会に向けた投資をすべきだった。


 だが、それは今だから言えること。
 今から、ムラを出て連帯を勝ち取れるだろうか。あまりに霧は深い。
 それでも予言は自己成就すると信じて元気を出せるか。確かに1人1人が信じなければ変革は始まらない。元気を出したい・・・。


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