『「場所」と「場」のまちづくりを歩く』その3

再開発、区画整理の終焉と新しい道

 最初に紹介したように岩見さんは再開発、区画整理への反対運動の先頭にたってきた。批判のポイントは、これら事業では土地が資産価値としてしか評価されないという点にある。
 土地が減らされ、位置が変えられても、利便性が増進し、土地の価格が上がるのだから損得なしじゃないか。しかも安全で快適になるのだから、良いことずくめ。何の文句があるということだが、住み続けるかぎりは売るわけにもゆかない。
 また利便性も人によって様ざまだ。車が入ることが嬉しいという人もいれば、車が入ってこないことが嬉しいという人もいる。4m道路が安全には不可欠という論理は、すでに破綻している。
 そのうえ、事業をして地価が上がるという前提が崩れ、実際には売れない、行政にもお金がないと、昨今、再開発も区画整理も元気がない。


 だが、仇敵が苦境に沈む一方、岩見さんも今ひとつ元気がない。「めざすべき新しいまちづくりのイメージをつくり得ていない」と正直に書いている。


 岩見さんは、その一つの試みとして、場所と場のまちづくりを主張している。
 「場所の成立はさまざまな力によって規定されいるのであり、そうした力が働くところを私は場と名付けたのである」「そうした場が集約され、折り重なって作用するところがコミュニティに他ならない」という。


 具体的には、たとえばイギリスのリビング・イーストンのまちづくり。ここではコミュニティの強化を目指し、具体的には地域史の発掘が行われている。『反乱奴隷の歴史』『イーストンの20世紀』などがパンフレットにまとめられ、タイムサインという歴史のスナップを示した看板が要所要所に掲げられているという。
 また保谷市の用水路を暗渠化してつくられた道。自動車が入ってこず気持ちが良いだけではなく、道の両サイドの数十センチのすき間に、道に面する家の人が勝手に草花や花木を植えているのが最高だ。同じ道でも、そういったすき間がない道は、今ひとつだという。

『場所の力』と「勝手花壇」

 リビング・イーストンの話で思い出すのはドロレス・ハイデン著『場所の力』(原著は1995年)だ。
 ドロレスは歴史的建造物の保存への問いかけから始めている。学術的芸術的に優れた建物の保存だけで充分なのか? 普通の人々の営みにもっと光をあて、現在の都市空間でそれらを顕在化させるべきではないか。
 そして、普通の、いやむしろ消し去られようとしていた歴史を掘り起こし、それを可視化するようなパブリックアートのプロジェクトを立ち上げていく。
 これは名著だと思うのだが、売れ行きが鈍った時点で無惨にも絶版になってしまった。


 一方、保谷市の話で思い出すのは、横山あおいさんの勝手花壇という命名だ。公共の道路のちょっとしたすき間に、花を植えたり、時にはネギやトマトを植えて、家庭菜園にしてしまっている。
http://www.gakugei-pub.jp/judi/forum/forum8/zi038.htm
 アダプト制度が、その後つくられたが、ああいう真面目なものとはちょっと違う。制度の壁をないかごとくに振る舞って、行政も回りの人も目くじらを立てない点が自然だ。

コミュニティの記憶を刻みつける

 これらの例は、場所の良さはコミュニティの記憶をどれだけ刻み込まれているか、そしてまた、それを読みとれる人がどれだけいるかにかかっているということを教えてくれる。
 これはまた、桑子敏雄さんの「空間の履歴」にも通じる話だ。
 歴史を抹消しリセットするような機能主義の都市計画にかわる哲学が、このあたりから生まれてくるのか、組み立て直されるのではないか。僕は大きな可能性を感じる。
 しかし、桑子さんの名著『感性の哲学』も絶版になってしまう今日、空間の履歴とともに、思索の履歴がもっと大切にされないものかと思わずにはいられない。


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