『オーガニック革命』

ハイパーノマドとは

 高城剛さんの『オーガニック革命』を読んだ。一言で言えば、複雑な気分。
 高城さんは、今までのグローバリゼーションはリーマンショックで崩壊し、これからはハイパーノマドの時代、真のグローバリゼーションの時代が来るという。
 2章では、これをイギリスを例に説明している。
 まず1997年までのイギリスは19世紀だったという。世界帝国だったイギリスは、その栄光を失ったあとも、その残滓で生き延びて来たが、1970年代、とうとうどうにもならなくなった。
 そこに降臨したのが鉄の女サッチャー。彼女は旧来型の安心と安定の社会、言い換えれば停滞と国頼りの社会をぶちこわし、一方で、金融立国を目指した。その弊害、格差とか貧困、公共サービスの質の低下があまりにもひどかったので、保守党が政権を降りることになったときに登場したのがブレア。
 彼は第三の道を提唱したが、それはサッチャーの改革に見栄えのよいブリティッシュ・クールという包装を施したものにすぎない。しかしグローバリズムが世界を覆い始め、サッチャーの改革がようやくその果実を手に入れる時期に偶然ゆきあたったこと、9.11のおかげでアメリカが新興国の投資家に閉鎖的になる一方、イギリスが極端な外資優遇をしたことなどが相まって、ブレアのロンドンは金融帝国の総本山となった。
 そしてロシアやアラブの金持ち、そこに取り入るビジネスマン、そして発展する街の寛容さに惹かれて世界の先端を走る人びと、たとえばゲイの人びとが集まる街になっていった。
 だが、サブプライムショックで様相は一変。ポンドは半額に下落。浮かれていた人びとは一斉に宗旨替えをして、今やオーガニックが一番クールなのだそうだ。
 だから高城さんもバルセロナに住みながらも、沖縄や北海道に農園をもち、食べるもの自分でつくれるように心がけている。一国一都市に定住せず、世界中を飛び回りながら、食には自家製に拘る。すくなくとも有機を買う。できれば顔の見える関係の中で買っていく。これが、これからのハイパー・ノマドのライフスタイルだという。

好きにはなれないが

 読んでいくと「そうだ、その通り」という指摘、考え方が随所にあるにもかかわらず、とても不愉快になる。
 最初のほうで「アタリはこれからの世界は、どこでも仕事ができ、暮らしていける500万人から1000万人のハイパー・ノマドと、生活のために移動せざるをえない何十億の下層ノマドに分かれていく、と断言している。世界的な勝ち組、負け組の分岐は、これからなのである」と高城さんの立場が明確にされている。ここで自分は勝ち組にに入る、ないし入ろうと僕は思わないもんだから、何もかも嘘くさく聞こえてしまう。
 アタリの言葉を僕流に言い直せば、グローバル化が進めば、農耕民族を略奪し尽くすハイパー・ノマドと、生活のために土地を離れられない農奴、そして土地さえ失った難民に分かれるんだと思う。そういう意味では、今までのグローバル化も、次のグローバル化も、何も変わらない。
 だが、ここは、「食事はジャンクフードか、コンビニのお弁当。もしくはおしゃれでかっこばかり付けたレストラン」だったという高城さんが、ファーマーズ・マーケットを好きになったことを素直に喜びたい。イギリスのオーガニック・ムーブメントが面白いのは、「アッパークラスの人びと発信する活動と、ワーキングクラスの人びとがストリートから発信する運動が出会って、新しい流れが生まれたところにある。そこに、愛国的な立場から地産地消やオーガニックを支持する右派の人びとや、安全でおいしい食べ物を誰でも安価に手に入れられる権利があると考える左派の人びとが加わって、さらに大きな一つの流れになる。そんな上下左右のカルチャーが交差するポイント、それがロンドンならではの新オーガニック主義なのである」と書かれているが、僕はこれに高城さんのような次のグローバリゼーションをハイパーノマドとして生きようという人と、グローバリゼーションだけはごめん蒙る、地に足をつけて生きたいという人との交差するポイントだと付け加えたい。
 いずれバルセロナに住みながらも、沖縄や北海道に農園をもって、石油を蕩尽しながらCO2をまき散らす生活がオーガニックなのかどうか、いやでも明らかになるだろう。いや、「地球のために○○しましょう」なんてどうも苦手というのは、まったく同感。「ブラウスのボタンを一番上まで留めたお下げ髪の風紀委員の女子みたいに」、タバコがいかん、お酒がいかんと押しつけてくるのは嫌いだ。自分の健康や心地よさに従って行動することがオーガニックなら、とても楽しいだろう。そして心地よさは人によって、時代によって変わっていくのだから、ジェット機で農場にいくよりも自転車で農場に通うほうが健康で楽しいとなるかもしれない。

価値ある情報とは

 もう一つ興味深い議論は、どんな情報に価値があるか?だ。
 高城さんは「この数年間、世界中を飛び回って、現実を見る努力を続けてきた。その中で分かったことがある。〜中略〜それは、時代や事象を自分の目で確かめられる正しく考える人と、テレビやウェブでの情報収集を中心としている人との間に、埋めようのない情報格差が生まれはじめているということだ」という。
 現実を自分の目で見ることの大切さは「そうだ!」と言いたいところだが、それが世界中を飛び回ることでしか出来ないことなのかは、大いに疑問だ。
 確かに今の時代は、そうでもしないと「あっという間にババをつかまされる、分かりやすい時代」なのかもしれない。だけど、歴史を振り返れば、外国などいったことのない人からも凄い思想、考えが生まれている。今は、情報にむやみに身をさらさず、自分の住む街をじっくり味わうという生き方もあって良いのではないか。そのうち「情報の取りすぎは、あなたの心身の健康に悪影響を及ぼします」と情報商品に表示される時代が来るかもしれない。



 「良い服と良い食べ物を表参道で買う」。そんな時代が来ると高城さんは言う。それはウエルカムだ。僕は行かないだろうが、京都にもそんな場所が出来ると良い。
 しかし、そのためには「日本の農家の大規模化を阻み、規模の小さな兼業農家を大量に生んできた」(p150)農政を、高城さんのようにグローバリズム、効率化の観点から批判して良いものか。大規模化、効率化を振りかざす先にオーガニックがあるとは、僕には思えない。直売所や加工所、農家レストランのような小さな商売を大切にしたい。
 また何もイギリスで何が流行しているからとか、流行の最先端の女の子がそうしているからと、追いかけなくても良いと思う。
 6年前まで住んでいた家は京都駅から3.5kmほどのところだったが、農協の直売所があり、各農家が家の前に100円とか200円で野菜を並べていた。今は町なかにきたので、そんな贅沢はなくなったが、初夏になると上賀茂から農家のおばさんが朝取れの野菜を売りに来てくれる。結構使うようになったのは最近だが、美味しいものは美味しい。そんな人それぞれの出発点があって良い。
 それでも、そういう動きが世界中で共鳴しあっていることを指摘されている点、心強い一冊だった。


 ちなみに、妻から「この人が沢尻エリカにメール一本で離婚された人」と教えてもらった。
 ハイパー・ノマドの生活も大変そうだ。