復興構想会議の提言」(1)


 構想会議の提言『悲惨のなかの希望』を読んだ。
 へんなタイトルだと思っていたが、読んでみるとやっぱりヘンだ。


 もっとも印象的に悲惨と希望が語られているのは「第3章 原子力災害からの復興に向けて」の(1)序章だ。


 そこでは、原発事故を起こりえないものと人々が信じた裏に「何か外の力が加わることによっていっそう閉ざされた構造」があったことを指摘し、原発事故を「ある型に回収されるような事態ではな」く、それは「パンドラの箱があいた時に、人類の上にありとあらゆる不幸が訪れたのと類似の事態」だとしている。


 ところが、その構造と悲惨に迫ることはせず、「パンドラの箱には、たったひとつ誤ってしまわれていたものがあった。それは何か。「希望」であった」と突然、話を変えてしまう。そして「人は人とつながることによってこそ、「希望」の光のなかに、明日のフクシマを生きることになろう」などと「閉ざされた構造」から目をそらしてしまう。


 これは、パンドラの箱をあけてしまったのは、誰のせいでもない。だれかを恨んだり、糾弾したりしてもよくならない。悲惨は神か天の試練なのだ。だから、人間は唯一残された希望を頼りに自ら生きていくしかない、と言いたいのだろうか。


 僕は原発事故からの復興の鍵は、自然エネルギーでも、次世代型安全安心原発でもないと思う。


 提言が心配するように、人間はいつまでもいつくるか分からない災害よりも、今のことを考えがちだ。というか、「いつ来るかもわからない原発事故の心配よりも、今日の暑さをどうしのぐかのほうがより現実的」なのだ。
 そうなったときに、同じ誤りを繰り返さないためには、100%安全でありえないものを100%安全だと言いくるめるような「閉ざされた構造」を徹底的に解体することだと思うが、違うだろうか?



 復興構想会議は「エネルギー戦略の見直しにあたっては、再生可能エネルギーの導入促進」などを主張している。
 また福島についても、再生可能エネルギーの集積を提言している。
 原発事故が続いている今、これらは耳に心地よい。


 だが現実には原発を急に全廃することは至難だし、仮に全廃したとしても「なにもしなくても安心」となるには、何十年、何百年かかるか分からないという。まして原子力をさらに推進するなら、次に事故が起こったときに、「閉ざされた構造」があったなんて言い訳は言うわけにはいかない。


 だから、パンドラの箱を開けたのは誰なのか、どうしてなのか、つきつめるべきだと思う。


(続く)