山口誠『ニッポンの海外旅行〜若者と観光メディアの50年史』(2)

冒険、探検から自分探しへ

深夜特急』とバックパッカー第二世代


 澤木耕太郎が香港からユーラシア大陸へ旅だったのは74年だった。
 そのときの友人への手紙をもとに10年後に書かれたのが『深夜特急』だ。


 山口によると澤木の実際の旅と、深夜特急に書かれた旅は本質的に違ったという。
 旅だったときの澤木は、漢詩の古典を愛読しながら、小田実の『何でも見てやろう』に刺激されて冒険に旅立ったのだが、帰国後10年間を経て、ここではないどこかへさまよう若者の「自分探し」のリアクション文体を編み出した。
 その旅に親和したのがアジアだった。


 「タイやインドを旅すれば経験するように、到着した空港でのタクシーの客引きにはじまり、街ではたくさんの物売りが声をかけてきて、安宿や食堂では値段や注文内容の交渉をする機会が多くある」。アジアでは「旅が向こうからやってくる」(p145)のだ。
 こうして格安航空券とガイドブックを持って、香港やタイなどを歩き回る若者が80年代後半を特徴づけることになる。

海外で日本を生きるバックパッカー第三世代



 蔵前仁一が『ゴーゴー・インド』を出版したのは1986年だった。
 以降、特に売れっ子作家になってから出された90年代の旅行記では、アジアに旅立った日本人バックパッカーが、あえて日本人同士で安宿に寄り集まり、どこに出かけるでもなく、日本製のインスタントラーメンに素直に感激するする姿が描かれている。
 ここにあるのは、個の自立への回路としての自分探しではない。「日本から一定の距離を取りつつも、それに対抗や反抗を試みず、いつか日本に帰還する自分のなかに「日本人」を探すために旅」(p168)をしているのだという。
 だが、歩くことからも遠ざかり安宿と日本人コミュニティに沈没してしまった彼らは、うまく日本を探せたのだろうか。


 そのような日本人探しを戯画化したのが「猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイク」という番組だった。
 苦しい貧乏旅行とハプニングを売りに高視聴率をかせいだ番組のなかで、「猿岩石の二人は理不尽を強いられても素直に受け入れ、時には感謝を口にするような、そして日本に帰国してもやっていけるような、謙虚で従順な「日本人の好青年」」に育った姿を演じたという。


 帰国した猿岩石は三万人もの群衆に出迎えられ、出版された『猿岩石日記』は瞬く間に100万部を超えたという。

 このような旅は見るのは面白いのかもしれないし、不屈の闘志を生み出す旅でもないので、小馬鹿にしながら楽しむこともできるのだろうが、同じような旅に出たいと恋いこがれることはないだろう。

 ここに見知らぬ土地、異文化との出会いから何かを得ようとしたフロンマー以来の「歩く旅」の思想的な意味は、マスメディアにおいては見事に消尽つくされたのかもしれない。


続く


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