風景が人をつくりのか、人が風景をつくるのか
昨年末、12月25日の都市環境デザインセミナーは「イタリアの都市から学ぶ日本の都市へのメッセージ」だったが、そのなかで報告者である井口勝文さんが最後にこの問いを出された。
そして、「僕(井口)は風景が人をつくると断言する」と言われた。
もちろん、美しい町に住んでいれば美しさを愛でる目も育つだろうし、だんだん美しくなる町に住んでいれば、多くの人がより美しくしたいと思い行動するだろう。
逆に、だんだん汚くなっていく町に住んでいれば、多くの人がどうでも良いと思いだすに違いない。
そういう相互作用があることは間違いない。
だが、それだけだったら、美しい町はますます美しくなり、汚い町はますます汚くなるしかない。
では、日本は昔から汚かったかというと、皆、口を揃えてそうではないというし、今は綺麗なイタリアの中心市街地も、70年頃の写真を見るととても綺麗とは言い難い。
とすると、問題なのは、綺麗なまちや風景が崩れていくとき何が起こっていたのか、汚い町や風景が美しくなっていくとき、何が起こったのか、ではないか。
多くの人がヨーロッパでは近代主義の建築、都市計画は70年代には大いに反省され、方向転換されたと指摘されている。
その転換をもたらしたのは何か。
風景を見る人の目が変わったのではないか?
それはともかく日本でもようやく見る目(価値観)の変化が感じ取れるという人も多い。
「風景が人をつくりのか、人が風景をつくるのか」といった二元論的な神学論争をするよりも、その変化を確実なものとするには、何をすれば良いのかを問うべきだろうと思うが、どうだろうか。