徳野貞雄『農村の幸せ、都会の幸せ』(3)

農山村の根本問題

 どうも田舎にはまだ「跡継ぎは男の子だから」という意識が強いらしい。だが、東京に住んでいる長男などなんの役にも立たない。夫婦別姓のところでも触れたが、まず、家を長男が継ぐという近代以降の観念を捨て、ずーと長い伝統がある柔軟な考えに立ち戻ることが必要だと徳野さんは言う。


 そしてまた、徳野さんは、普段は息子が都会に出て帰ってこないと嘆いている親が、いざ息子が帰りたいというと、難癖をつけて「帰ってくるな」という現実も指摘している。「農業を継ぐことを決めた」と言われて髪の毛が真っ白になった人もいるという。


 ここに農山村の一番難儀な問題があるように思える。
 都会の実相も知らず、都会のほうが良いだろうと思いこんでいる。自身の生活や環境に誇りを持てないのだ。


元気なのは女性

 関満博は『「農」と「食」のフロンティア』で、農村で自立と産業化という未来を切り開きつつあるのは、女性の元気だと書かれている。


 徳野さんも、村の将来を話し合うときに、必ず夫婦同伴で来てもらうと書かれている。
 そういった場でも元気なのはおばさんたちだと言う。「男性は、行政やJAとかの会議には良く出ますが、肝心の将来農業計画は人任せ、役所任せ」「圃場壌整備とか、集落営農とか、行政がつくってきた計画しか出てきません」(p145)。
 「一方女性たちは、「圃場整備をしても良いけれど他人には貸さない、自分で花や野菜を作って自分たちで売る」と勝手に空き家を潰し地図まで描き、旧街道の眺めのいいところに自分たちでフラワーショップを描いています」(p146)といった感じだ。


 男のほうが昔の夢から覚めることもできず、沈み込み、都会のほうが良いに違いないとぼやいているだけということなのか。


 だがしかし、本当の豊かさはどちらにあるのだろうか。
 タイトルにあるように、この本の本当の問いかけは、ここにある。それはまあ、簡単には紹介できないので、良ければ読んで考えて欲しい。


蛇足

 ところで、この本の帯には「セガレよ、そろそろ帰ってこないか」と書かれている。
 しかし紹介した部分はもちろん、その他の部分でも、あまりセガレは問題にされていない。娘、そして孫だ。


 そしてまた、帯の全面に使われている写真が、いかにも古い。1952年、徳野さんのいう1500年間つづいた「自分の食は自分で作る時代」の最後の頃の写真である。

 それは、ちょっと違うんじゃないかと思ってしまう。それで売れたんだから放っておいてくれと言われそうだが、ノスタルジーを掻き立てることは、徳野さんが言おうとしていることとずれているように思う。かといって、この本の主張を真正面に立てて売れそうなコピーというのも、確かに難しいとは思うが。


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関満博農と食のフロンティア