林直樹、齋藤晋編著『撤退の農村計画』(3)

跡地管理の方法

 撤退した後、あるいは結果的に集落が消えてしまった後、その土地をどう管理するかが大問題だ。
 どんな問題があり、どんな対策があるのか、『撤退の農村計画』から幾つか紹介しよう。

放棄地、所有者不明の土地

 都市計画の改革の議論でも、管理がなされない空き家や空き地、放棄された土地をどうするかが問題になりはじめている。


 今後、過疎集落では、土地や家屋を売却せずに都市部に移転して、その後連絡が取れなくなり、何代も前の土地になると子孫が相続すべき土地の存在すら知らないといった場合が増えるという。


 では、どうするか。
 これについては従来は義務のない管理者が他人のためにその事務を管理する「事務管理」という民法の規定しか方法がなかったが、今のままでは、これは使い勝手が悪い。


 幸い、農地法等が改正され、農業委員会がその土地を遊休地として公告し、農地保有合理化法人が意思表示すれば、都道府県知事による裁定で、農地としての耕作ができるようになった(p132、表2)。


 森林については、まだ条件が厳しいが、農地法にならってハードルを低くすれば使えるようになるという(p133)。

粗放農業

 放棄地や集落移転跡地を引き受けることができるようになっても、公共の支援だけをあてにできないとすると、経済的に持続可能な仕組みがないと続かない。


 そこで期待されているのが、粗放農業だという。
 単純に言えば、人手をかけられなくなった農地に牛を放牧する。そうすると牛が草を食べてくれて無秩序な自然化が防げるし、牛も健康になる。


 従来の集約型に比べ単位土地面積あたりの生産量は少なくなるが、飼料代や投入労力の減少で、10aあたりの純収益は2795円になる。これは中国地方の稲作平均より高い(p137)。


 ちなみに宗田さんが報告したイタリアのスローフードでは、オーガニックに拘って放牧された牛をハッピーカウと呼び、値段は数倍するという。
 こういうブランディングの仕方もあるというわけだ。

自然と人のエリアの間に緩衝帯を設置

 動物と人間が入り交じって住む状態は、獣害の脅威を高める。
 人も獣も入り交じっていると、戦線はやたら伸びてしまうし、動物も退路を断たれて徹底抗戦してくる。人間の側はというと、相手が絶滅危惧種だと強い手段をとるわけにもいかない。果てしない闘いが続きかねない。


 その点、もし計画的に撤退し、中・大型獣の生息空間と人の居住空間の接線をなるべく減らすと同時に、中・大型獣にも退路を与えれば、追い払いやすくなる。


 そして獣の生息空間と人の居住空間の間に緩衝帯をもうけ、さきほどの粗放農業などで草の繁茂を防ぎ見通しを良くする。あるいは森と接する田んぼについては直接支払い制度における単価を引き上げ、維持する。
 こうすることで獣害をある程度、押さえることができる。

合意形成は本当に可能か

 さて、良いことずくめに見える集落の撤退だが、どうだろうか。


 小田切さんは昨日紹介した講演録のなかで「住民には集落への強い愛着があり、集落機能消滅後も一部も住み続けるケースがある。→強制的集落移転政策はなじまない(実は、著しく大きな政策コストを要する)」(p42)とされている。


 いや強制なんて考えていない。合意が前提だと言われるだろうが、果たしてそんな合意が計画者が思い描くように都合良く取れるのだろうか。
 臨界点を超えてしまっては、活性化も撤退も無理だろう。
 とすると、撤退するのは比較的元気な集落だけで、下手をすると撤退した集落の先に、もっと不便な、臨界点を超えてしまった集落が取り残されるかもしれない。そういうところは支援しないとすると、その先に集落がない、比較的元気な集落だけが対象となってしまうが、それで良いのだろうか。


 小田切さんも林さんも、まずは「ここに生まれたことを誇りに思う」という気持ち、誇りの再建が大切だという。だが、その先に小田切さんは集落の持続を夢見、林さんは積極的な撤退を夢見る。


 そのいずれをとるのかは、その地区の人々や、外から支える人々を含めた決断だ。


 『撤退の農村計画』の意味は、臨界点が見えてきたとき、そこで頑張るか、死を迎えるかの二者択一以外に、一つの選択肢があることを宣言した点にある。


 なお、たとえ静かに死を迎えるという選択の場合も、粗放農業化や放棄地の扱い方など、この本に書かれた知恵は大いに役立つと思う。
 頻繁にではなくても、農業をしに行く人が外部から入れば、見守りにも役立つのではないだろうか。


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林 直樹、齋藤晋 編著『撤退の農村計画―過疎地域からはじまる戦略的再編



おまけ

 写真は京都の廃村八丁にある温泉。
 1933年(昭和8年)の大雪で孤立し、食料が欠乏し、病人が出ても医者を呼ぶすべもなくなった。その後、住民は仕方なく村をあげて山をあとにすることになったとのこと。
 京大演習林(芦生の森)でも、村の跡をみたことがある。ここは麓まで電気がきたのに、ここには来ないことになったため、出ていったという話だった。