「新しい中世」の始まりと日本

近代の終焉


 蓑原さんの薦めで大窪一志『「新しい中世」の始まりと日本』を読んだ。
 難しい本だった。
 グローバリズムは実質賃金を抑制する利潤革命のために、資本と労働の市場統合を推進し、国民国家を解体する「資本の反革命」だと言う(p80)。
 だからグローバリズムの完遂は、国民国家の時代、すなわち近代の終焉であり、それはもう始まっている。著者の直感によれば2003年が近代の終わりなのだそうだ。


 近代は所有権の主体としての個人に可能な限りの自由を与えた。しかし、それだけでは「所有による階級分化」を招かざるを得ないので、普通選挙制度等の政治的同権化による国民国家という「想像の共同体」がその分裂を防いでいた。
 ところが国民国家第一次大戦というとんでもない惨禍を防げなかった。
 そして今、グローバリズムによって、資本と労働は国境を越え、国民国家はその基盤を失いつつある。

日本の個人のあり方

 グローバリズムによる国民国家の終焉は、先日紹介したアタリの『21世紀の歴史』でも主張されていることであり、『「分かち合い」の経済学』の神野さんも意識していることだと思う。ただ、大窪さんやアタリは、おそらく神野さんのような国民国家への回帰では問題は解決しないと言う。


 ではどうするのか、どう考えれば良いのかだが、大窪さんが言いたいことが良く分からない。



 本のなかで一番分かりやすいのが、中国と日本を比較した155ページの図だ。
 右は日本。私がイエやムラに包まれているだけではない。「ウチでは」に象徴されるように、広がった輪ごとに、私も拡大し、溶解している。私の膨張は国家にまでいたり、「私」であり「公」である国家と、その最高存在としての天皇に包摂され、個はどこにも定立できない。


 日本の会社がバブルの頃まで家族主義を標榜し、支持されていたのも、その現れだし、天皇がお父さん、日本臣民を長男とみなし、アジアを弟とみる八紘一宇とか、戦後の人類みな兄弟といった考え方も、その現れなのだろう。
 これではとても、今の世界をわたって行けない。


 それに対して中国では専制的な皇帝に人民は支配されているが、その皇帝のうえに天がある。だから、皇帝がとことん困った奴になったら、人民は天の意を語って反乱を起こすことができる。ここでは「天」のみが「公」であり、個は常に定立されている。


 近代化の過程において、日本のこの特質は実にうまく機能したと大窪さんは言う。それに対し、脱近代、新しい中世においては、個人主義がしっかりと根付き、その上に同族、同郷などのネットワークが築かれている中国のほうが適合的だという。
 だから、中国が社会主義を捨て、むしろ超帝国を目指し始めた昨今、その勃興は著しいのかもしれない。

個人のあり方を変えられるか

 そもそも、日本のこの特質が近代化においてうまく機能したというのは僕はウソだと思う。一致団結して快進撃はできたかもしれないが、侵略競争も、経済戦争も、負け戦になるとてんで定見がなかった。


 それはともかく、ここのところを変えていくことが最初に必要ではないか。そうでないと、大窪さんが言う、中世的な個人主義、普遍的なものを分有する近代的(量的)個人ではなく、かけがえのない個性を持つ中世的な(質的)個人を論じることもむなしい。


 ヨーロッパ中世になぞらえ、多元・連合・協同社会を論じても、「私」と「公」の見境のない野合に終わるのではないかと、僕は思う。


 そういう意味では、僕は5月14日に紹介した広井さんが言う「都市型のコミュニティをいかにつくれるか、その際、集団を超えて会話できる普遍的な価値原理のあり方が課題だとされる」という問題意識が今こそ重要ではないかと思う。

脱近代の危うさ

 明治の再評価など、大窪さんの主張に共感できない面も多い。
 たとえば、明治政府は明治憲法教育勅語をつくった際に、信教の自由に十分に配慮し、大日本帝国の官吏ですら皇室の祭儀において礼拝しなくても良いと明確に認識していたと言う。
 だから、1891年に嘱託教員だった内村鑑三が、勅語に署名された天皇の宸書に対して最敬礼を行わなかったのは不敬だとされた事件で、政府は信教の自由の立場からやむ得ないという立場をとったのに、むしろ、マスコミや世論が明治政府の意図を超えて政教分離を踏みにじったのだと大窪さんは強調する。


 しかし、「臣民たるの義務に背かざるかぎりにおいて」認められていた信教の自由は、臣民の義務が無限に拡張され天皇崇拝をも意味することになったとき、なんの意味もなくなった。
 明治政府が目指したのは祭政一致であり、政教一致ではなかったと言われても、上記のように天皇が公も私も包摂し、かつ大将軍として富国強兵を主導したとき、そんなガラス細工のような理屈が生き続けるはずがない。


 戦死者への深い思いとか、愛国とか、左翼とは違った立場から右翼との違いを打ち出したいのだろうが、そんな細かい議論は学問としての意味しかないのではないかと思う。


 大窪さんによれば脱近代の思想は、第一次大戦後のヨーロッパで起こり、当時、もっとも深く議論されたのだという。そして、結果的に多くの論者が親ナチズムに陥ってしまった。
 1人一票のような単純で無味乾燥で無力な形式民主主義ではなく、個性的個人主義を標榜したところに、英雄的個人への陥穽があったのだろうか。


 大窪さんは、そういったことは本質的ではない、という立場だ。
 近代的な所有個人主義とは異なる個の再興と、その結合としての部分社会の創出、全体社会の政治とは異なる部分社会の政治といった大窪さんのしごくまっとうに思える主張だが、暗黒の中世を招き寄せることにならないか、ちょっと心配なところだ。


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大窪一志著「新しい中世」の始まりと日本―融解する近代と日本の再発見