『世界遺産の真実』

MaedaYu2010-05-20


 宗田好史さんに薦められて佐滝剛弘さんの『「世界遺産」の真実』を読んだ。
 イコモスなどに関わっておられる宗田さんが「良く取材している」と誉めるだけあって、しっかりした内容だ。特に94年のグローバルストラテジー(産業遺産、20世紀の建造物、文化的景観)や、シリアル・ノミネーションについては、部分的にしか知らなかったので勉強になった。

梯子をはずされた地元〜骨寺村荘園遺跡

 『景観まちづくり最前線』という本をつくっているとき、骨寺村(ほねでらむら)の景観計画を書いて下さっていた地元市役所の高橋弘恭さんから、がっかりメールが届いた。そんなに大変なことだとは思わなかったので、「気を落とさずに、原稿を宜しく」などと言っていたのだが、佐滝さんによると地元の落胆は想像以上だったようだ。
 登録延期になっただけではない。再挑戦の時の資産リストから外されてしまったという。


 高橋さんによると、2004年に本寺地区地域づくり推進協議会が設立されたが、地域は圃場整備のラストチャンスと捉え、中世の荘園そのものの曲がったあぜ道や自然のままの川を残しながら、将来にわたって営農を継続するうえで必要な最小限の農地整備を検討してきたという。
 そして地元と相談しながら行政は世界遺産のコアゾーン(核心部分)候補は重要文化的景観とし、コアゾーンとバッファゾーン全体を景観計画区域とした。また自主的な景観むらづくり活動を推進するための自主条例も作ってきた。2007年には景観保全農地整備計画や景観農業振興地域整備計画もできていた。


 その挙げ句の再挑戦からの除外である。世界遺産への登録だけが目的だけではなかっただろうが、地元の人が国や県に不審をいだき、元気がないというのも当然だろう。

その後の本寺地区

 関満博さんの『「農」と「食」の農商工連携-中山間地域の先端モデル・岩手県の現場から』によると、その後、2008年に、本寺地区地域づくり推進協議会の四部会と一関市が糾合し、骨寺村21世紀フォーラムが結成されたという。
 そして制約が多い景観保全農地整備計画を実施し、効率性だけから見れば不利な営業基盤で営農を続けていく一方で、観光客の受入れ施設をつくり、産直販売、レストランをつくっていくことを決めた。
 2009年には女性部会を母体に農家レストラン、直売所、農家加工所を担う新しい組織、骨寺の里もできた。


 その設立主旨には「(1)私たちは、おもてなしの心を持って地域農産物の販売およびそれらの加工を行います。(2)私たちは郷土料理の提供を行なうことにより、歴史を刻んだ景観、骨寺村荘園の魅力を発信します。(3)私たちは、地域での生きがいづくり、農業振興および次世代への文化の継承に努めます」とある。
 世界遺産騒動に振り回されながらも、地元の人たちが景観を大切に受け止めてきたことが、ここに凝縮しているように思う。

世界遺産の功罪

 世界遺産については厳しい評価をする人も多い。ベトナムハロン湾について鳴海邦碩さんは「確かに島嶼の風景はすばらしいが、驚くばかりの勢いでリゾート開発が進んでいるのである。開発のプランナーやデザイナーは皆先進国の人たちで、集客産業的などこにでもありそうなリゾート開発が目指されているのである。これを推進しているのは地域の知事クラスの人たちだそうで、これは世界遺産に名を借りたリゾート開発ではないかと思ってしまう。地域の人たちがその開発で得ることのできる恩恵は、せいぜいホテルの従業員に雇われるぐらいなのではないだろうか」と書いている(「集客施設ではなく、街の魅力が人を引きつける」『都市環境デザインフォーラム関西:観光の新しい形』)。


 また、『世界遺産と地域振興―中国雲南省麗江にくらす』を編集された山村高淑さんと、藤木庸介さんにお会いしたときには、地域外の資本に占拠されたありさまへの憤りにびっくりした。
 僕はTBSの「世界遺産」という番組で、その素晴らしさに惚れ惚れしたほうなので、「そこまで言わないでも」と思ったが、実情は結構ひどいらしい。いわゆる世界遺産=観光ブランド化であり、観光化=特権層と外部資本化であるという。


 佐滝さんによると、ユネスコでは無形遺産に続き、言語を守る運動にも取り組んでいるそうだ。世界で2500の言語が消滅の危機にさらされ、日本ではアイヌ語八重山語与那国語宮古語八丈語が「きわめて深刻」「重大な危険」「危険」に分類されているという。
 こういう取り組みは文句なしに素晴らしいと思う。


 世界遺産にも、異文化の人たちが大切にしているものを世界共通の宝として大切にしようという精神が基本にあったはずだ。それがなぜ、過度な観光化に結びつくのか。素晴らしい番組だったが、あまりに美しい映像を伝えすぎるのも考え物かもしれない。

登録件数が1000件を超えたら

 佐滝滝さんは登録件数が1000件を超える2015年頃、世界遺産は曲がり角を迎えるという。今後も保護を必要とする人類の至宝を守っていく決意なら、人員も予算も増やして取り組むべきだし、それが無理なら一回振り出しに戻して登録し直すぐらいの英断が必要という。
 まただいぶ前の新聞記事で政治家が、世界遺産は増えすぎると希少性がなくなる、と言っていた。
 僕は反対に、どんどん増やすべきだと思う。その結果、審査がいい加減になったり、保護の手が回らなくなるのは残念だが、致し方ない。少なくとも世界遺産が百万、千万箇所になれば、過度な観光化なんて問題にならなくなるだろう。


 顕著な普遍的な価値がないといけないという登録基準と、お互いの価値を認め合うと言うことは、矛盾しないのだろうか。佐滝さんも世界遺産の重要な意味として「多様性の重要性」を思い出させてくれる点をあげている。ならば、地域の人たちが「これは大切だ。人類の遺産だ」と言っているものに、これは傑作ではないとか、代表性がないとかいうことが本当はおかしくないか。「どうして、そう思うのか」「保護のために何をしているのか」を問うほうが大切ではないだろうか。


 どんどん増えれば審査も保護もその国まかせ、いや地域任せになっていくだろう。だから毎年、何万箇所もが失われていくだろう。しかし、その事実が記録され、伝えられるだけでも価値があると思う。


 もちろん、国や地域を越えて、なんとしても残したいものもある。それらのうち特に危機にさらされているものを選んで、世界が集中的に取り組んでいくことが必要だ。
 佐滝さんの言っている再登録は、こんな考えに近いのかもしれない。


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