佐伯啓思『成長経済の終焉〜資本主義の限界と「豊かさ」の再定義』(2003)

 経済成長と幸福、豊かさについて書かれた本を探していて出会った一冊。
 2003年というと十年ほど前だが、すでに「高度経済成長は・・・人口増加社会であり、そして経済的な「豊かさに」人々が飢えていた状況の産物であった」と書かれていた。
 当時、構造改革さえすれば成長するといった言説を振りまいた政治家やマスコミを辛辣に批判しているが、同時に、公共事業による景気浮揚という方法にも限界があることを認めている。
 もう、量的拡大や巨大化を指標とした「豊かさ」は夢ではあり得なくなっている。だから「豊かさ」の再定義が必要だと言うわけだ。

 では、それはどのように再定義されるのか。
 残念ながら、そこのところは曖昧で、「それなりの共通の価値によって結び付けられた人々の集まり」としてのコミュニティに期待を表明しているが、深くは書かれていない。
 「グローバルな競争に邁進するのではなく、家族や地域コミュニティを再建すること、医療や「気配り」のきいたサーヴィスを充実させること、雇用の安定を確保し、経済の不安定やリスクを最小化すること、こうした目的のために、知的な資源を公共的に投資すること、つまり「新たな社会」へ向けた社会生活のインフラストラクチャーを充実させること」が重要とされているが、ではどんな公共政策が必要なのかは、読者に投げられたままだ。残念ながら、この本が書かれてから約10年、僕たちはまだこの具体的な答えを持ち合わせていない。

 なお経済に詳しくない僕にも、なるほどナと思えたのは、投資が盛んになるためには、将来の社会像が必要だということ。それが共有されていないと、長期的な投資はあまりにも不確実になってしまう。だが、将来の社会像は市場からは生まれてこないということだ。
 人間は将来のことなんか分からない、数十年先のことなんか計画しても絵に描いた餅だというので、市場に任せたほうがマシというのがここ十数年の流行りだろう。だが、任せた結果、どうなるかは分からない。分かっていれば計画だって可能だが、分かるはずがないから市場に任せる・・・となると、将来は見通せず、長期的な投資意欲は減退し、投機的な市場が栄えることはあっても、経済はジワジワと弱っていかざるを得ない。市場をもっとも信頼する市場至上主義的な考えが、市場の前提条件を腐らせていく。
 だから、民間活動の方向に確信を持たせるために、国家が将来像を描き実現する公共計画が必要だと佐伯さんは主張する。
 いまさら国家か、という人も多いだろうが、著者は、グローバル化で国家の役割が小さくなったというのは、あまりにもナイーブな捉え方だと言う。たとえばグローバル化、IT化はアメリカの国家戦略として強力に進められ、それがアメリカの国民性というか、文化と合致していたが故に、90年代、00年代のアメリカの一人勝ちをもたらした。なのに国家の退場なんて言説をまともに受け止めて浮かれていたのはアホか、という訳だ。
 その点は納得なのだが、問題は、日本国が日本の特質に合致した将来像を描き、人々の心を再び捉えることができるかにある。僕は前途多難だという気がするが、その点はまたいつか書きたい。

 ところで、こういった議論とは別に、目からウロコだったのは、経済学は「豊かさ」という問題を扱うことが出来ないという指摘だ。なぜなら、経済学が想定している人間は、つねに何かを買いたがる、決して満足しない人、決して豊かになれない人だからだ。
 最後の最後まで満足することなく、新しいものを買いたがる人が不幸とは限らない。夢の飽くなき探求者といえばカッコいい。が、ローカルな生活の安定のほうが大事だとか、将来、路頭に迷う不安がなければそれで良いと思う人だって多いだろう。鼻の先にニンジンをぶら下げられて、走り続けるのはもうご免だ、「足るを知る」で行こうという人がいてもおかしくない。だが、そういうことは経済学は想定していないそうだ※。
 だから、山崎亮さんの「経済成長がなければ僕たちは幸せになれないんでしょうか?」なんて、経済学に答えを求めることじゃなかったのかもしれない。藻谷さんが真面目につき合ってくれたのは、彼が経済学者じゃなかったからなのだろう。

追※:佐伯さんが学んだケインズは、「豊かさ故の停滞」も予言していたらしい。そういえばアダムスミスもそうだったという話を聞いたことがある。
   大学者は生きた時代だけではなく、遠い将来も見据えていたと言うことだろうか。

(おわり)


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藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?