藻谷浩介「丸一日・中心市街地活性化塾」(4)


 今日は藻谷さんのセミナーのまとめとしよう。
 「第3部 地価低下時代のまちづくりと、その担い手」では群馬県館林、富山市岩瀬浜、村上、長浜、神戸新開地、旧居留地、そして大丸有、高松丸亀商店街等が紹介された。
 それぞれに学ぶベき点が多い事例だし、特に長浜については、まちづくり役場の山崎弘子さんが来られていて、最新のお話しをしてくださった。また神戸旧居留地については小林郁雄さんが補足下さるなど、現場の実践者が多く集まったセミナーならではの醍醐味があった。


 僕自身が興味深かったのは、第一部で紹介された青森の話しだ。
 コンパクトシティ政策の概略は知っていたが、当時の市長が何を守ろうとしたのかは知らなかった。それは、藻谷さんによれば青森中央インターから南に残された田んぼを全部だという。


 市長は「南側の開発が始まって三〇年。ものすごい量の土地が開発されて、青森市はそこに道路、上下水道を引いた。そこの除雪にも年間平均で十数億円ぐらいの多大なお金もかけている。過去三〇年間人口は増えてないのに除雪費用だけは何倍にも増えてしまった。道路延長がどんどん伸びて、人が薄く広く住むようになったからだ。その結果、道路の維持補修、除雪、様々なことでお金だけは死ぬほどかかるようになったのに、税収は一円も増えない。なぜ人口も増えないのに開発地を増やさないといけないのか」「せめて残ったわずかな土地だけでも守りたい。貴重な自然だ」と言っていたという。


 しかし地元の地権者にしてみれば、まわりはみんな土地を売るなり貸すなりして良い思いをしているのに、あの市長さえいなければここを開発させて大儲けできたのにと思ってしまう。藻谷さんは「それをやらせなかったことが、政治家にとっていかに危ない行為だったことか。信念を持ってないとできないことです」という。そして、ここは日本の都市開発史に残る偉大な実験だったと言っていた。


 同様に2006年にイオンの進出に対して農振解除を拒んだ佐世保市の光武市長も苦しい立場になったという。具体的な話しは校正を終えていただかないと、ちょっと紹介しづらい。


 後でインターネットで見てみると、出店賛成派の地権者や雇用の増加や利便性を期待する賛成派が11万人もの署名をあつめ、環境団体や中心商店街も5万人で対抗、市を二分する争いとなったという(長崎新聞2006年、2/25)。
 光武市長は「市長就任の十一年間で最も厳しい判断だった」とした上で「消費者からは賛成が多いことも理解できるが、長期的な町づくりなど、さまざまな視点から考え抜いた結果」と説明したという(西日本新聞 2/24)。
 そして、同年の夏、次の年の市長選には出馬しないことを表明されたという(Wikipedeia)。


 実は光武市長には『中心市街地活性化三法とまちづくり』(学芸出版社、2006年)という本に、この件も含めた寄稿いただいている。
 もちろん間違いのない事実関係が書かれているし、農振解除を拒んだ理由も、その背景にある考え方もきちんと書かれているのだが、どれだけ壮絶な決断だったかは、そこからは伺えない。


 その一端でも藻谷さんの話しから伺えたことは、現場を知らない僕にとってはとても貴重だ。
 なるべくセミナーでの藻谷さんの熱演を損なわず、しかもきちんとした形で本に残したいと思う。
 ご期待下さい。


○執筆中の藻谷さんへメッセージを!
 本セミナーをベースとした原稿を、現在、校正頂いています。
 校正中の藻谷さんへの激励のメッセージは下記から。


 「丸一日・中心市街地活性化塾・藻谷さんにメッセージを!


○参考資料

第173回都市経営フォーラム「デフレ時代と中心市街地 」


・藻谷浩介『デフレの正体 経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21)


・藻谷浩介『実測!ニッポンの地域力