宇沢弘文『「成田」とは何か』(1)

宇沢弘文さんと成田闘争


 宇沢弘文さんと言えば、近代経済学の泰斗であると同時に、『自動車の社会的費用』(岩波新書、1974年)で「外部不経済」という考え方を広く世に知らしめた人である。


 都市計画学会の50周年記念大会が早稲田で開かれたとき、記念講演に来られ、9.11をさしてアメリカの世紀の崩壊が始まったと喝破されたのには驚いた。
 またジェーン・ジェイコブスを高く評価されたことも印象に残っている。


 その後、ソーシャル・キャピタルが話題になることが増え、宇沢さんの『社会的共通資本』も、よく引用されるようになった。岡部明子さんも参加して書かれた『都市のルネッサンスを求めて』では、ストラスブールなども紹介されている。


 その宇沢さんが『「成田」とは何か』を書かれていることを偶然知り、読んでみた。


 91年から、反対派住民と政府の公開シンポジウムや円卓会議が始まっていたことは、かすかに記憶しているが、宇沢さんも関係していたそうだ。


 この本はシンポジウムへの協力依頼を反対派住民と運輸省の双方から受けた頃から、第一回シンポジウムが開かれるまでの91年4月から11月まで『世界』に連載された文章をほぼそのまま収録し、前後に文章を付けられたものだ。


 宇沢さんも「成田闘争が日本の政治、社会、経済、文化のあらゆる面における腐敗、堕落に対して突きつけたきびしい批判と抵抗について心から共感を覚えながら、傍観者的な態度をとりつづけてきたという負い目」(p159)について語っておられる。
 また91年の秋に、新任の奥田運輸大臣が、前大臣の「強制的な手段は用いない」という約束をひるがえし、「いつまでも待っているわけにはいかんでしょう」と言ったときの対応で、「国家権力に対する恐怖から、成田問題の本質を見失って、反対同盟の人々の信頼感に応えることができなかった」とまで言わしめたのが成田闘争だ。


 僕は傍観者だったが、それでも成田闘争はあやふやな記憶で書けないことは知っている。
 だが、宇沢さんの本を読んだだけでも、その持つ意味の大きさに圧倒される。

住民を無視した公共事業

 三里塚立地が決まったときの政府の姿勢はどうであったのか。
 閣議決定の前夜、農林次官が運輸次官に地元の農民の了解を得たのかと問いただしたとき、「運輸省が飛行場をつくるときには上の方で一方的に決めて、農民はそれに従うのが一般原則である。これまでもこの方式で飛行場を建設してきたのであって、一度も問題になったことはない」と運輸次官が言ったという(p78)。


 新国際空港の建設は霞ヶ浦と富里が候補地だったが、霞が浦がボーリング調査の結果、候補から外れ、富里に一度は仮決定したものの、地元の猛烈な反対にあって頓挫してしまう。
 そこで川島自民党副総裁から友納千葉県知事に斡旋案として提示されたのが三里塚だった。

 三里塚はその主要部分が宮内庁の下総御料牧場であったこと、第二次大戦後に入植した開拓農民が多く、貧しいから土地収用が容易ではないかという理由から選ばれたのではないかという(p76)。


 第一回公開シンポジウムでの石毛博道さんの意見発表では「当時の計画案作成者の一人は「ちょっとへんな形をしているでしょう。四角じゃなくて凹んだところがある。あれは5百年以上続いている旧家があって、土地を売るのをウンといわないだろう、と削ったんです」(『文藝春秋』S46年6月号)と語っています。開拓農民なら簡単に土地を売るだろうという行政サイドの農民蔑視の感覚は、この発言で証明されていますが、私たちは一貫してこのような姿勢に対する怒りを感じてきました」(p204)としている。


 なお富里は成田市に隣接し、少し東京よりにある。富里案は敷地2300ヘクタール、滑走路5本だったが、三里塚案では1060ヘクタール、滑走路3本になったという(p76)。国家プロジェクトの規模が、このようにコロコロ変わること自体、計画の正当性に疑念を抱かせる。


 もちろん成田にも一定の効用はあったろう。8月21日に紹介したが「法制度上、公共の利益を増進するであろうと微塵も見込めないような公共事業を実施することはおおよそ不可能」だと言う意見もあるが、上記のようないい加減な過程で決まった成田空港は、多大な社会的な損失を出した。


 成田闘争は、よくボタンの掛け違いと言われる。
 反対派の農民も自分たちの努力の結晶である農地をこよなく大切にしていたが、同時に、「明治大帝発祥の地」として御料を誇りにしていた老人もいれば(p47)、「自分が納得し、意気に感じたら、ただでも喜んで自分の土地財産を投げ出す」ような人たちもいた(佐山忠「白骨の怨念〜小川明治さん追悼文、本書、p95)。


 ある再開発の偉い先生が、成田のおかげでゴネ得がまかり通るようになったと嘆いていたが、それはあまりに偏った、酷い見方だ。理を尽くして説明することもせず、また本当にどんな空港が必要なのかの確信もなしに、札束で農民を追いつめたのは政府である。


(続く)

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