藤井聡『正々堂々と「公共事業の雇用創出効果」を論ぜよ』(1)

コンパクトシティ


 著者の藤井聡さんは現在、京都大学工学部で土木計画、とくに交通計画を教えておられる。


 交通図書賞を受賞された『モビリティ・マネジメント入門』は東京工業大学におられた頃に、僕が担当して書いて頂いた本だ。
 そのとき、最初にいただいた草稿に、歩いていける範囲で買い物や食事はもちろん、公演も堪能できる北欧の街での生活が書かれていた。それを読み、僕が求めているものは、こんな生活だと思った。


 結局、本には載らなかったのだが、似た話が『正々堂々と「公共事業の雇用創出効果」を論ぜよ』にも載っていた。


 イエテボリに1年間滞在されたおり、都心を囲む運河のすぐ外側のアパートに住み、「買い物、仕事、散歩、公園やカフェでの休憩、映画、そして国内出張のための中央駅へのアクセス、海外出張に行くにあたっての空港バスへの停留所へのアクセス等、日常生活のほとんど全ての移動が、徒歩、あるいはトラムで、数十秒から数分程度(少なくとも10分以内」という生活こそ、コンパクトシティと呼ぶものであろうと思うと書かれている(p132)。


 そして「日本に、このような街のあり方を取り入れることができないか」という思いを抱かれるが、同時に、「莫大な投資をもってして、考えられうる最高のコンパクト・シティの整備を行った」(p137)としても、様々な新しい問題を生み出すだけだ、と言われる。


 なぜなら、上記のようなコンパクトシティは「近所で事足りる活動しか行わない」という生き方、文化に適した「均衡解」だからだ。たとえば郊外の広い庭、商店などが混在しない閑静な住宅地に住み、買い物や娯楽は郊外のショッピングセンターにクルマでゆくといった生活を好む人たちに、近所で事足りる生活を押しつけることは出来ない。


 ではコンパクトシティ文化と郊外生活文化とを分ける重要な要素は何か?
 それは「マイカー利用だ」と藤井さんは言う。


 僕なら、地球環境問題やエネルギー危機を引き合いに出し、マイカー利用に未来はないと論を運ぶところだが、藤井さんはそのような紋切り型の言い方はしない。


 経済学では選択肢が増えることが幸せに繋がると言われるが、果たしてそうか、と問うてくる。
 マイカーにより選択肢が増えることよりも、「数少ない選択肢から厳選した場所に、繰り返し訪れることで、ますますその場所を好意的に感じるようになる」(p140)。
 日本には「よく見れば 薺(ナズナ)花咲く 垣根かな」(p141)という松尾芭蕉の一句に見られるように、垣根に生えたぺんぺん草の花ですら、美を感じる伝統がある。
 しかしマイカーに依存したままだと、「よく見る」ということは出来ない。
 たとえマイカーがないことで選択の幅が狭まっても、生活になんら遜色はないと言われる。


 実際、藤井さん自身、帰国後、思い切ってマイカーを止めたそうだ。そうすると近所の商店で欲しいものはほとんど手に入ったし、お寺があり、神社があり、公園があることが分かり、地域に愛着がわいてきたという。


 だからコンパクトシティの実現を真に願うなら、人々のマイカー利用、ひいては文化が変わることを期待する他はない、と言われる。

モビリティ・マネジメント

 ただし、手をこまねいて、文化が変わることを祈っておられるわけではない。



 藤井さんはモビリティ・マネジメントの研究と実践の第一線にたっておられる。モビリティ・マネジメントとは「大規模、かつ、個別的に呼びかけていく「コミュニケーション施策」を中心として、システムの運用改善や整備も組み合わせつつ、住民1人1人や一つ一つの職場組織等に働きかけ、自発的な(車から公共交通や徒歩や自転車への)行動の転換を促していくもの」である(『モビリティ・マネジメント入門』p15、( )内は前田補筆)。


 それは、松尾芭蕉や地域への愛着といった高尚な話からではなく、マイカーに頼らなくても、より快適に目的地が達せられる可能性を知ってもらうことから始まる。単純な話、近くにバス停があるなら、駐車の手間暇を考えれば、マイカーでいくより早く行けることだって少なくない。まして近距離なら自転車が早いことが多い。


 こうして人びとが車と賢くつき合う社会になってゆけば、道路空間の再配分やロードプライシングなど、車に厳しい政策も賛意を得られるようになるというシナリオである。

藤井さんの主張の核心


 藤井さんの主張は、民営化議論にせよ、反道路建設の議論にせよ、「論理を踏まえて議論されているものではなく、「気分」として語られているにしか過ぎない」「その気分は何かと問うてみれば」「大衆の大衆ならざるものへの「妬み」から立ちのぼるものとしか思えぬものなのである」(p90)に尽きる。


 「少なくとも現行の法制度上、公共の利益を増進するであろうと微塵も見込めないような公共事業を実施することはおおよそ不可能」なのに、「公共事業を推進する際にはできるだけ早い段階に住民参加を進める一方で、公共事業の効果を定期的に評価し国民に公開しよう、そして場合によっては住民投票による拒否権すら、一定程度は認めよう、という機運が行政の中においてすら高まっている」(p34)。


 それは「(国民世論が公共事業に不信感をもっている)このご時世だから、住民の声をきちんと取り入れなければならない」(p35)といった専門家の言説で一層広まっていく。


 しかし、この「このご時世だから」という言葉は、公共事業が公共の利益に資するか否かのみで判断すべきという基本を冒涜し、自分の意見には多数の同調者がいるという「脅し文句」にほかならない。「このご時世だから」ですませてしまう輩は、裸の王様を褒めそやすお調子者、すなわち大衆にお追従を言うお調子者に過ぎない。


 マスコミは大衆が聞きたがることを敏感に察知して、意に添うようなお調子者の言説を流す。大衆はその言説に接して、意を強くする。だから、物事はとかく極端に流れていく。


 藤井さんは、このマスコミと大衆の相互作用を「大衆人とお調子者が織りなす世論の螺旋運動」と呼ばれている。


 確かに、今の言論状況には絶望的な気分になることは多い。
 だから、「世論の螺旋運動」という指摘に共感するところも多いし、それは「インターネットでの書込ページが普及するにつれ、ますます加速している」(p40)という指摘にも頷かざるを得ない。


 しかし、この螺旋運動は、大衆の欲望の暗黒面を体現したものだと、言い切れるのか。
 それはそれで疑問が残る。

続く


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田中尚人、柴田久編著、藤井 聡、秀島 栄三、横松 宗太、著『土木と景観―風景のためのデザインとマネジメント』(学芸出版社


北村隆一編著、藤井聡ほか著『ポスト・モータリゼーション―21世紀の都市と交通戦略』(学芸出版社