好井裕明『「あたりまえ」を疑う社会学』(1)


 連れ合いが買ってきた好井裕明さんの『「あたりまえ」を疑う社会学』を読んだ。
 出だしのとっつきやすさと、大衆演劇の世界に入り込んでしまった鵜飼正樹さんの話に引かれたようだが、数十ページも読まないうちに放り出してある。
 光文社新書なので軽いのかと思ったら、とんでもない。読みやすくはあるが、とても重たい内容の本だった。
 感想を書きたいが手に余る。内容を紹介しよう。

数字で語れるか

 最初に、通り一遍の調査が、いかにしょうもないものかが明らかにされる。
 たとえば、ある研究者による同和地区の実態調査の報告では、さまざまなクロス表を駆使したあげく、出てきた結論が「この地区では『各戸で部屋の数と畳の数が相関している』」。そんなことなら一目見れば分かるじゃないか。「私(好井)は一瞬目が点になり、頭が真っ白になった」(p26)という。(注1)


 また自治体の市民意識調査。「みなさんの生活環境をよくするために、とくに必要と考えられるのはどのような事業ですか。お考えに近いものを三つだけ選んで」くださいという類のものだ。選択肢は「女性政策の推進」「公害対策」「道路の整備」「消費者保護の推進」「公園、緑化の整備」「下水道の整備」など23個が並んでいる(p27)。

 好井さんはここで、なぜこの23個なのか?といい加減さを指摘する。


 その印象は、最後に「その他(具体的に)」というスペースがあることで決定的になる。
 23個を適当に並べたうえに、何でも良いから書いてくれっと言って集まったデータをどのように評価し、政策に生かすというのか、見えてこない。意図がありすぎるアンケートも問題だが、意図がないアンケートは往々にしてゴミになるだけだ。


 「あなたは、自分のまわりで起こっていることがどうでもいい、という気持ちになることがありますか? (まったくない 1-2-3-4-5-6-7 とてもよくある)」(p32)、どれかに○を付けろという質問も困ったものだ。
 僕の場合、あるといえばあるし、ないといえばない。だいたい何を基準に良くあるかどうか測れば良いのだろうか。


 好井さんはこういう回答者の人生をめぐる感じ方や、価値、生活実感、情緒などを一次元の尺度にむりやり落とし込まそうという力に問題があるという(p34)。


 好井さんは何もこういった統計調査が無意味だと言いたいわけではない。
 ただ、なんでもアンケートをとり、統計をとれば分かるものではなく、とりわけ価値、生活実感、情緒など質的な調査では、アンケートには限界があると言われる。
 では、どうするか。


 たとえばヒアリングが考えられる。建築や都市計画の分野でも、ヒアリングが多用されるし、なかにはライフヒストリーを聞き取るといった調査もある。
 しかし、それはそんなに安易な事ではないぞ、と実感させてくれるのが本書だ。

入り込む

 たとえば暴走族の人たちに語ってもらおうと思ったら、まず、その集団に入り込み、一定の信頼を得なければならない。『暴走族のエスノグラフィー』を書かれた佐藤郁哉さんの場合は、カメラがきっかけだった。自分がなぜ暴走族の回りをうろついているのかをアピールするため、いつもカメラをぶら下げていたのだが、調査に入って3ヶ月がたったある日、族を卒業するある女性から記念写真を撮ってもらいたいという電話があったという。


 こうして佐藤さんは「得たいのしれないおっさん」から、「写真を撮って」と「使える」おっさんに変わっていく(p46)。
 ただ、この場合、暴走族に良いように使われてしまうだけでは、話にならない。


 たとえば認知症のケア施設にはいるとき、施設にとって邪魔な、迷惑な存在になってはダメだが、同時に施設側の立場にたってしまっては真実を知ることはできない。


 出口泰靖さんは、研修者、ボランティアとして施設に入り、施設から与えられた役割を演じながら認知症のお年寄りと向き合おうとするが、「朝までオムツははずせないんだから」「(オムツ)にしちゃいなさい」と当たり前のように対応する職員の感覚や施設の日常。
 そういう日常の場面に違和感を覚えながらも、ボランティアの役割を演じてしまう自分への苛立ち。
 こうした裂け目に目をふさがず、反省的に読み解くところから、出口さんは施設の福祉的現実の問題性を明らかにしていくという。
 すなわち役割を演じ、かつ役割に囚われないことが求められる(p53)。


 こういった調査は、入り込み、語ってもらわなければ始まらないが、語ってもらえないこと、語れないことにより大きな意味がある場合もあるという。入り込んでも自分が聞きたいこと、相手が語りたいことだけを見てきても、ダメだということだ。

聞き取る

 調査としてライフストリーを聞き取るといった場面でのことだ。
 好井さんは若い頃に大失敗をしたことがあるという。被差別部落に年輩の先生方と一緒に聞き取りにいったときのこと、開口一番「○○さんは、これまでどのような差別を受けてきましたか」と聞いてしまったのだ。
 「いかにも客観的な装いの問いかけをしながら、勝手に作り挙げていた「決め付け」を相手に押しつけようとしていた私の営みがあった」(p124)。


 ここまで露骨でなくても、ヒアリングのおりに、「ついそれはいつの事ですか」と聞いててしまう。「〈物語世界〉を生きている語り手にとって、それが何年であろうと関係がない」。しかし標準時間に繋げたいという聞き手の欲求が、語り手の語りを微細に静止してしまう。


 一方、人々の語りはすべてオリジナルではなく、共通に記憶し語るモデル・ストリーもあれば、影響を与えているドミナント・ストリーもあるという。それらが固有の経験と織り合わされ語られる。


 ライフストーリーの聞き取りは、このように容易なことではない。好井さんは最低限の心得として「相手とまっすぐに向き合おうとすること」「まっすぐにとは相手の語りの背後に奥深く、はてなく広がっているであろう、?語りを生み出す力??生きてきた〈ひと〉の力?にたいして「まっすぐ」なのである」(p155)としている。


 明日は、「あたりまえ」を疑うの真骨頂、普通であることとは何かについての好井さんの議論を紹介したい。

続く

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「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス (光文社新書、2006)


注1;
 好井さんの説明だけ読むと、「各戸で部屋の数と畳の数が相関している」という結論の調査は、ばかばかしく思えてくるが、たとえば僕のマンションでは「部屋の数と畳の数」は相関していない。
 コーポラティブという自由設計を取り入れたマンションなので、設計時の生活設計、単純には家族数と部屋数が相関関係が高そうだ。
 だから、「やらずもがなの調査」と片づけるのは、ちょっと早計かもしれないが、複雑な統計分析なんてしなくても、結果をちょっと眺めれば分かることではある。

注2;
 鵜飼正樹さんの『大衆演劇の旅』等が取り上げられている第3章、「あるものになる」は面白いけれどもパスした。