関満博『現場主義の知的生産法』(1)
関さんの整理術は整理しないこと
この10月に社内引っ越しをした。
とてもたくさんのゴミが出たことは10月14日に書いたが、そのゴミの多くをため込んでいたのはY氏とM女史だ。
彼等は、机の周りに幾重ものゴミの城壁を築き、狭くない机の筈なのに、谷底のようなところで仕事をしていた。パーティション越しに覗くと、谷底のビーバーのような感じだった。
見るからにルーズそうだが、どういうわけか二人とも誤植を見逃さない。M女史のつくるものは社では一番綺麗だったりする。なにより僕のように「あれはどこだ!?」と探し回って騒ぐことがない。
実に不思議な話だが、その秘密の一端を解き明かしてくれるのが、関満博さんの『現場主義の知的生産法』(2002年、ちくま新書)だ。
関さんは若い頃はカードマニアだったそうだ。3万枚の図書カードに関連文献が整理されており、1万枚の京大式カードには文献等からの抜き書きやアイデアが整理してあったそうだ。(ちなみに僕も京大カードには挑戦したが、100枚もゆかずに挫折した)。
ところが忙しくなってきた三十代後半から、このシステムが機能しなくなる。
一つには文献主義から離れ、現場に足が向いたため。
そして「時間をかけて整理すると、それで仕事が終わったような気分になってしまう。ある時、これが最大の問題だと気づいた」からだそうだ(p114)。
そして、最先端を走っている集団と、もっとも遅れている集団に着目するという関さん一流の研究手法さながらに、整理魔から、まったく整理しない魔になったという。「整理なんてヤメだ」「そのへんにぶん投げておけば良い」(p114)。
というわけで、書斎は満杯、床にも書籍や報告書等の資料が1mほども積み上がり、足の踏み場もない状態になる。
よく使う資料が手近なところに積み上がり、あまり使わない資料は、山の向こうの山に、いや、ひょっとすると更に向こうの山に積み上がっていく。
そのうえ、不思議なことに関さんの資料には足が生えているという。
手近なところにおいてあるはずの資料が、どういうわけか、ない!。どうしてだ、と山を崩しながら、奥地に分け入っていく。ようやく見つけた資料をかかえ、散乱した本や資料をまた積み上げながら出てくるのだが、その時、よく使う資料が奥地の山に紛れ込んでいく。
こうして、書斎はちゃんこ鍋のような状態に陥っていくのだが、それでも仕事ができるのは、なぜか。
今やらないと、資料がどこに紛れ込むか分からないという恐怖感が、必死に仕事を片付けることになるのだという。
自慢じゃないが、僕はそこそこ綺麗に整理している。
でも、一日の半分は何かを探して時間を無駄にしているんじゃないかと自己嫌悪に陥ることもしばしばだ。
いっそ、今、片付けてしまえば、二度と巡り会えなくても支障はない。
さて、M女史は引っ越しのどさくさに領土を拡張して、さしものボタ山も当座は棚に収まってしまった。
果たして、どうなるか。
追:また、調査資料などで、すぐに対応できない物は、大きな手提げ袋にいれてテーマを大書しておくと、良いらしい。
こうすると、さすがに無くならないと書いてあった。
また先日、関先生の研究室を訪れたら、普通に整理されていて、床がちゃんと見えていた。状況が変わったようだ。
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関満博著『現場主義の知的生産法 (ちくま新書)』(2002、221ページ、735円、筑摩書房)