小熊英二『社会を変えるには』

 これはまちづくり関係者にも是非読んで欲しい本だ。
 本の焦点は「デモ」だが、「デモ」が抱える問題、可能性は、まちづくりで盛んに言われてきた「参加」「参画」に通じている。ともに、選挙で選ばれた首長さんや議員さんにお任せするだけでは足りない、それだけでは民主主義ではないと言ってきた。それは何故なのかを、難しい言葉や、最新の(カタカナ語があふれる)理論ではなく、戦後の日本の社会史と誰もが知っている近代思想の基礎を辿りながら明らかにしてくれる。

 一番気に入った言葉を引用すると「立派な真理や見事な政策を一方的に教えてもらっても、よくわからないから無関心になったり、それでうまく行かなくなると教えた人を非難したり、といったことになりがちです。内発的な変化ではないから、ほんとうのところは納得していないからです。それより、みんなで知恵を出しあって、議論して盛りあがるほうが、一人ひとりが変わり、根底から社会を変えるにはいいかもしれない」(p370)。「そうした納得を広げることを、政治学では正統性とよびます。それは対話と関係のなかで「われわれ」を作っていく作業なのです」(p372)。


 では、なぜ、「われわれ」を作っていく作業が必要なのかというと、今は労働者とか、ブルジョワ、女性といった「われわれ」がなくなってしまっているからだという。代議制による民主主義だからといって51%の票をとったら信認されるというほど単純ではなく、「われわれ」の代表が選ばれているという意識がないと正統性を保てない。だから労働組合や農協、商工会議所や財界が「われわれ」であった時代ならともかく、今は首相が我われの代表だなんて、ほとんどの人が思っていない。高級官僚も、非正規雇用労働者であれ、「自分はないがしろ」にされていると感じている。
 だから対話と参加から「われわれ」を作る動きに意味がある。


 著者は、脱原発デモは「1)政府が自分たちをないがしろにし既得権をえている内輪だけですべてを決めるのは許せない、2)自分で考え、自分が声をあげられる社会をつくりたい。3)無力感と退屈を、ものを買い、電気を使ってまぎらわせていくような沈滞した生活はもうごめんだ」という声だという。
 なるほど。そうだろうと思う。幸い、政府も人々の声を受け入れて30年後にゼロにしたいと言い出した。まっとされるか怪しげだが、社会を変える一歩は確かに刻まれた。
 同じように、まちづくりのなかにも、自分が生かされていると実感できる格好の場面があるんじゃないかと思う。
 山崎亮がさんのコミュニティデザインは、「われわれ」をつむぎ直しているように見える。
 地区計画や街並み保存、景観のルール作りなども、同様の可能性を持っている。
 出版という迂遠な方法だけけれども、僕たちが追いかけている分野も、社会の根幹を作り直す小さな一歩になっているんだと思えてきて、嬉しい。

(おわり)


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