鈴木謙介『サブカル・ニッポンの新自由主義』

 小泉さんが人気が高かったころ、知り合いのバイトの子が「改革大賛成!」「労働力の自由化、是非やるべき」というのを聞いて、とても奇異に感じたことがある。
 言われていた労働力の流動化は、どう考えても労働市場で弱い立場にある彼らを圧迫するし、彼らを支えてくれている親世代をリストラに追い込むかもしれない。それなのに、彼に限らず、結構多くの若い人たち小泉改革を支持するのが不思議で仕方がなかった。
 だから「既得権批判が若者を追い込む」というサブタイトルがついている本書を見つけて、さっそく読んでみた。
 結論から言うと、やっぱり分からなかった。
 一番分かりやすい解説は、旧体制のなかで甘い汁をすっている僕たちが、旧体制に参加するチャンスを失った若者に、自由化して得をするのはほんの一握り。「結果的に負け組になる可能性のほうが高いんじゃないか」と言っても、「それこそ無能な連中が自分にチャンスを与えないためにそう言っているに違いない」と受け取られるだけだという指摘だ。
 無能な人間を10人引きづり下ろすことで、席がひとつ空くなら、チャンスが生まれる。実力で評価されれば、無能な人間が単に正社員であるだけで貰っていた給料の何倍かは稼げるだろう、といったことらしい。
 たしかに、そういう側面もあるだろう。
 同一労働同一賃金という当然の原則がないがしろにされている。正社員とそれ以外の格差が大きすぎる。だからお前の給料を削れと言われたら渋々同意するだろうが、無能な人間を引きずりおろせ!では、世代間戦争だ。
 だいち無能な僕たちを引きずりおろした後、企業が有能な若い人にその果実をそのまま渡すと考えるのはナイーブに過ぎる。


 肝心の内容は、部分的には興味深いところもあったが、僕には難しくて良く分からなかった。
 たとえば新左翼(ニューレフト)やあの時代の異議申し立てが、新自由主義と妙なところで親和している、たとえばカルフォルニアン・イデオロギーは「ヒッピーたちの奔放な精神と、ヤッピーたちの企業的野心とをふしだらに結び付けている」といったことは、マイクロソフトやアップルを彷彿とさせて面白い。
 また新自由主義が、「「もはや他に道はない」と人々に思いこませる点」が問題だという指摘は、そうか、と思える。
 たとえばヨーロッパの第三の道新自由主義を内面化した主体しか包摂の対象としない「参加への封じ込み」を要求する社会制度だという指摘は、今まで気づきもしなかった面だ(ただし本当にそうかは、きちんと調べなくては・・・)。
 アメリカ流の福祉も、働けるようになることを強調する。生活保障ではなく、職業訓練をといった流れだ。確かに、働けるようになることは、多くの場合、人に充実感を与えるから良いことだと思う。だけど、それしかないとすると、「敗北死すら許されず、再び自己責任による競争のリングに上がる事を要求される」というわけだ。
 高齢になっても働きたいという気持ちは僕にも強い。だが、ヘロヘロになってもリングに立たされるのはご免蒙りたい。

 著者が本書の結論としているのは、外の世界の価値観に浸食されず、ありのままでいられる承認の共同体における自己肯定感で得られるタフネス、アナーキズム的実存が、市場の酷薄な関係を食い破る可能性だ。どういう話なのか半分も分からないが、なんか前向きな感じがする。
 そして、ロストジェネレーション」とい言われる世代の「幸福な奴ら=既得権」への「怨念」を書きつつ、「「苦しい」と語りあう声が、いつしか「楽しい」と語り合う場を生み出すなら、そこにこの社会の希望がある。その希望こそは、私たちが「ほんとうに」幸せになるための社会変革を促す力になるだろう」と締めくくっていた。

 なかなか良いな、と思うのだが、同時に、新書を何冊も出して、ラジオのメインパーソナリティを務め、著名な研究所の研究員である著者に怨念を持たれるほど、僕たちの世代は幸福な奴らなのだろうか。僕の世代の感覚で言えば、三十代半ばでそんなことが出来ていたら、「相当に凄いやつ」って感じだった。そんな目立った奴は同世代にはいなかった。なんでそんな奴に恨まれなキャならないんだろう。


(おわり)

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