橋本健二『階級都市』

 これまで東京は実に羨ましい街だと思っていた。
 なぜなら、超高層が林立し、繁華街には人があふれているだけではなく、下北沢のような若者文化を肌で感じられる街もあるし、谷根千のような趣のある街もある。なんでも揃っていて、ずるいぞ、コラって感じだ。

 しかし、この本を読むと、そういうアホなことを考えていてはいけないと、反省させられる。
 東京のなかで山の手と下町、高台と低地の格差が拡大し、しかも、交雑する都市から、排他的なモザイク都市になっているらしい。「あの地区の子供と遊んじゃいけないよ」といったことが増殖しているという。
 重要なのは、階級のモザイクが「目に見える住居形態の差異をともなうとき、それは差別の激化に繋がるかもしれない」という指摘だろう。
 格差は悪くない、むしろ努力の原動力になる、セーフティネットさえしっかりしていれば良いという考え方はあるだろう。あの橋下大阪市長でさえ、格差は事後的に(相続税等で)調整し、子どもたちにはもれなく最高の教育環境を与えると言ってる。
 だが本書によれば、階級構造が再生産されるのは社会構造が個人のうちに内面化されたハビトゥスによるものだという。ハビトゥスは、一定のパターンにしたがった性向の体系、たとえば労働者階級は命令に従って規律正しく労働することを身につけ、新中間階級では知識を動員したり創造的・自発的に動くことを身につけることによって、特に意識することもなく、今ある社会構造を維持・存続させてしまうのだそうだ。
 しかも困ったことに、それぞれの階級は別々の空間に集まって住む傾向があり、それぞれの地域の人たちは同じ階級のハビトゥスを共有している。もし、学校に違う階級の子どもたちがいれば、「違った世界があるんだ」という気づきも起こるが、同じ階級の子供たちばかりだったり、違う階級の子どもたちがいても交流がないと、同様の固定化がおこってしまうという。
 もし、この通りだとする、いかに相続税を強化し、教育環境を整えても、格差の固定化が進んでしまうだろう。
 そんなのは単なる同情。自由の競争できるのだから、結果は一人一人の資質、努力の問題だと言うかもしれない。しかし、著者の調査によると、進学校と就職校が明確に分かれている府県よりも、同じ高校のなかに進学希望者と就職希望者が混在している府県のほうが、進学率が高かったそうだ。
 なにも労働者階級から新中間階級になることが人生の目的だとは思わないが、選択の自由、競争のための公平・公正な環境は子どもたちに保障されるべきだろう。
 それに、こういった格差が人と人との信頼という社会基盤も切り崩すという点が、僕は一番問題だと思う。

 格差の少ない社会への処方箋は、本書にははっきりとは示されていない。都市・まちづくりについては、都営住宅のような、いかにも「収入の少ない人がまとまって住んでいます」という形ではなく、家賃補助のほうが良いといった、既に繰り返されている提案しか見られない。

 むしろ東京の地域間格差関東大震災後に本格的に導入された近代都市計画によって、実際にも、イメージの上でも強められたという指摘が重い。
 著者は20世紀の資本主義を牽引した二つの要素として、フォードによる大量生産・大量消費と、建設不動産業による空間の開発を上げている。いずれも生産性を向上し、それに携わった労働者階級・新中間階級の賃上げを実現することで、その消費者も生み出した。
 その建設不動産業の活躍の場を整えたのが都市計画だった。そこでは、中産階級の郊外住宅地を守ることが重視された。用途の純化という名の下に中産階級の住宅地は保護し、工業地や商業地の住宅は放置したし、最近では下町の低層街区への超高層の侵入も放置している。
 だから都市・まちづくりも責任の一端を担っている。
 考えなきゃいけないとは思うのだが、今ひとつ信じられない点もある。
 超高層は確かに見た目は偉そうだし、こんにゃろうと思うが、多くは安普請だし、大量生産品に過ぎない。
 グローバルビジネスの拠点には相応しいそうだが、創造的で自発的な人々にとって、あんなものに住むことがステータスなんだろうか。仮にそうだとしても、そんな時代は放っておいてももうすぐ終わるような気もする。

(おわり)

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