なる都市計画・まちづくりとは 〜 『都市・まちづくり学入門』セミナー


 1月26日、『都市・まちづくり学入門』の出版記念を兼ねて、「なる都市計画・まちづくりとは」何かを論じ合うセミナーを開いた。
 著者も、どうしてもこれなかった一人を除いて参加くださり、会場には予想以上の人が集まってくださった。感謝。

 本書は「人口減少時代に入り、パワーとマネーにより「大きくつくる」都市計画は終わった」、そして「これからは個々人が自分の周囲にある環境の特性や周りにいる他者との関係性を意識し、小さな自律的な変化を積み重ねるまちづくりの時代だ」という認識のもと、新しい都市計画教程をつくろうとした本だ。

 その大きなコンセプトが「なる」。これは結果自然に成るという達磨大師の言葉から来ている。

 最初の30分ほど、著者を代表して久隆浩さんが、その基本的な姿勢を解説された。そのあと、四つのパートについて「なる」をどう受け止めたか議論をしていったのだが、「事例をあげての分かりやすい解説」を期待していた人には、ちょっと申し訳がない抽象的な議論だったかもしれない。
 ほんとうに新しい教程なのか、単に従来の都市計画の考え方に、まちづくりの話題を接ぎ穂したものじゃないのかを問うと、どうしても抽象的で禅問答的にならざるを得なかったと理解して欲しい。

 さて、多くの論点が出てきたが、真骨頂は終了時間も迫ったころに出てきた。
 一つは「なる都市計画・まちづくりでは評価をどう考えるのか」、もう一つは「なる都市計画・まちづくりでは将来像をどのように描くのか」という質問だ。
 この二つは、ある意味、同じことだとも言える。なぜなら、将来像を描く設計図があれば、事業の進捗率を評価することも容易だし、出来上がった成果の性能を予定した性能と比べチェックすることも、出来るはずだからだ。
 こういう質問が最後に出てくるということは、久さんたちの真意は、やっぱり理解されないんだなと思った。そういう従来の発想を捨てましょうというのが、本書の主張なのだが、都市計画=計画、計画=将来像という図式が身体に染みついている。
 まして、職業を考えるとあやうい。都市は「なる」んだとしたら、計画者(プランナー)は何をすれば良いのか。
 久さんは最初に「野菜は育てるが、果実の実はなる」という用例をひいて、育てるのではなく、木の実がなるように寄り添うようなつき合い方を示唆された。それは、日本の果実栽培のように芸術的な手入れを精魂をこめて行うというイメージではなく、生命がもつ本来のあり方を少し手助けするようなあり方だろう。
 また久さんは『都市の針治療』という本を紹介されて、ツボを刺激するといったあり方を考えるべきと言われていた。
 この点を敷衍すると、医食同源というようなあり方も都市計画やまちづくりには求められると僕は思う。いわば都市計画やまちづくりといった能動的な行為(医療)の前に、日常の生活・活動(食)が大事だということだ。
 いまの都市の不幸は、普通の人の普通の経済活動が、なぜか街壊しの元凶のように言われてしまうことがあることだ。「まちづくり」とあえて意識しなくても、たとえば家を建てたり借りたりすることが、街をよくすることに繋がるような、そんな真っ当な経済・社会にならないものか。
 その場合重要なのは、まちづくりよりも、むしろ都市計画だろう。その規制や関連する税制など、大きな仕組みが、不幸な実がなる土壌をつくっているからだ。
 仕組みを変えようというと、「なる」なんて言いながら、やっぱり計画し、支配したいんじゃないかと言われるかもしれない。会場からの意見にも「「なるようになる」をコントロールする向きもあるような気がします。善意であれ、あるいは悪意で」(Nさん)というものがあった。ただ、なにもしなければ、20世紀後半の夢を背負ってつくられたルールが生き残る。その土壌のうえでチグハグな争いが続いていく。
 だから、市民が望む方向にスムースに動けるように少し手助けする、せめて邪魔をしないというように変えてゆくことが必要だし、言ってみれば「なる」都市計画の目標は、都市計画の存在が誰も感じないぐらいに自然なルールとなることなのかもしれない。


(おわり)

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