漁村の復興(2)

 もう一つ、安藤元夫さんの『阪神・淡路大震災 復興都市計画事業・まちづくり』では、「14章 淡路・北淡町富島地区の復興まちづくり支援」(p323〜328)に漁村集落の例が書かれている。

 ここは地震前は都市計画区域外だったのだが、どういうわけか、地震を契機に都市計画区域編入され、区画整理が施行された。


 集落を分断する15mの道路が予定され、集落は推進、断固阻止、中間派にわれてしまったという。


 著者の安藤さんは、そんななかで反対派の人達と住民案の作成を試みる。しかし素案をつくっている過程の96年11月、事業計画の縦覧が強行され住民案の作成は頓挫してしまった。
 ただしその1年後、町当局が自主的に計画変更し、西側半分では現道を尊重した住民案を取り入れたという。


 分かりにくい経過だが、96年11月の円卓会議で「事業計画を決定しても、そののち計画は変更すること」が示され、推進派の復興協議会が事業計画を決定しないなら、今後一切まちづくりに協力しないという姿勢を示し、事業計画が強行されたという。


 みんな善意で動いている筈なのに、なぜ住民の間を引き裂くようなことになるのだろう。

 そんな疑問に対して、震災から6ヶ月ほどたったとき、被災地にお金をいれようとしたら区画整理しかなかったんだと囁いてくれた人がいた。


 今度は、そのような制度が生む悲劇はなんとしても避けたい。
 大胆かつ柔軟に対応し、公正かつ効果的に使って欲しい。


 災害対応は時間との競争だが、いち早く住民の意向を受け入れ、協働のまちづくりに転換して合意形成を成し遂げた若宮地区に関わった後藤祐介さんは「震災復興にあたって、国、県、市の行政サイドの予算配分における縦割りの単純な仕組みが反映された結果」が「かえって多くの時間を費やし、 空間構成等にも問題を残した」と書かれている(きんもくせい50+34号)。
http://www.gakugei-pub.jp/kobe/s_kin/ski34.htm


 安藤さんも『阪神・淡路大震災 復興都市計画事業・まちづくり』の4章で紹介している築地地区について、神戸等で行われた3月の都市計画決定を行わず、住民合意をまって8月に区画整理と住宅地区改良事業の合併施行を決定したことが、早めの復興につながったとしている。

 今回は都市計画事業の出番は少ないだろうが、農林省所管の事業でも、少しでも早く!という気持ちから、従来の縦割り事業にお金を注ぎこんでも、うまくいかない場合もあるだろう。

 急がば回れ、ということもあるのだ。

(おわり)