鳴海邦碩著『都市の自由空間』

歴史のなかの自由空間


 この本はひょっとすると「反都市計画の書」なのかもしれない。
 なぜか。
 語られる事例のなかに、計画意思が読み取れないからだ。


 「道は空地である」ということ自体も、そうだ。道なんだから、人が通るとか、軍隊が迅速に移動するという目的を実現するという意思があって造られたと言っても良さそうなのに、その点には目が向けられない。


 平安京の計画的に造られた街路は、耕地化されたり、宅地化され、占拠される。江戸の街路には様々な規制があったことが述べられているが、それは規制の成功史ではなく、これだけ規制が繰り返し出されているということは、きっとそれに反する実態があったに違いないと読み解かれる。


 では、そのような空地、自由空間はどのようにして生まれたのか。
 まず、集落には集住のための装置として空地があったという。その延長上に空地性を持つ街路も位置づけられる。
 そして、もう一つのルーツは「市」に代表される祭祀・交易空間、そして社交・娯楽空間だ。
 いずれも無主の地であったり、そうでなくても、当時の公権力がストレートに管理できなかった空間である。



 
ボリビア・ラパスの露天商 /1960年代末の新宿・西口広場


 このように、鳴海さんが魅力的と言う自由空間は、誰かが決意してガツンと造り、キチンと管理しているというものとはほど遠い。
 西村幸夫さんは、路地の魅力を語っても、そこに見えない無名の人々の計画意図を読み取ろうとされるのだが、鳴海さんには、それがない。古代あるいは歴史以前から、「人が集住するために必要」なんだから、できてしまう。まあ、ほっておいてもそうなるという感じが濃厚なように僕には読める。

現代の自由空間

 では、現代はどうか。
 鳴海さんは三つにわけて現状を書いている。


 近隣型自由空間として紹介されるのは、たとえば高層住宅の屋上や中間階での試み。あまり心地好く無さそうだ。路地の素敵な写真が載せられているが、こういう空間も車に駆逐されつつある。


 次は繁華街地区型自由空間。
 商店街、百貨店やショッピングセンター、地下街などなど。
 挙げられた例のなかで一番懐かしく面白げなのが梅田駅地下広場だ。大阪駅をおりて御堂筋線谷町線方面に降りていくと、それはあった。戦後の匂いがする小さな個店や、壁新聞で訴える人が入り交じる市のような広場。しかし、これは花の万博時に美化の一環として撤去された。
 商店街は元気がないし、百貨店等々は所詮、疑似街路にすぎない。


 第三の類型は公園と水辺型自由空間。昔は河原と言えば無主の空間であり、河原者がい集していたのだろうが、今はきっちりと管理されている。
 それでもOL達がタバコを吸いに来るといった息抜きの場所になっていたりするという。
 海外や日本でも伝統的な空間には、公園や水辺が行楽の地となり、商売でにぎわった例が多いが、いまでも商売は公園から排除されている。


 ことさらに事を荒立てる書き方はされていないが、近代都市計画や都市づくりは、どうも自由空間と相性が悪いように読める。ほうっておけば良いものまで、ついつい整理整頓したくなるのが、都市計画のようである。

現代における自由空間の創出

 たとえばNPOが頑張って北浜の川沿いの建物からテラスを張り出してカフェを開いたという。これは頑張った例。
 一方、ストリートダンスの練習をする若者がいつの間にか集まるようになったOCATのポンテ広場の場合は、成り行きの結果という例。若者が集まって来たのを見た三セクの偉い人が、練習しやすいようにステンレスの鏡を置いたという。人々のニーズに柔軟に寄り添ったとも言える例。



 
北浜テラス/ポンテ広場


 そのほか、いろいろな例が紹介されているが、結論は「単に公共的な空間があるだけでは、公共が管理しやすい場所になってしまう。利用する側の意欲と努力によって、公共的な空間は自由空間になれる」ということだ。


 そうだ。その通りと思ってしまうが、ここで「はじめに」を見てみよう。
 そこには「魅力的な自由空間をつくりだすためには、単に空間を設計するという姿勢だけでは不十分であり、社会的文化的な現象として組立てる観点が重要である」と書かれている。比べると、どうだろうか。


 「社会的文化的な現象として組立てる」というのは、できそうにもない話だと僕には思える。「はじめに」だから、計画する人にリップサービスをしているということかもしれない。
 とはいえ、利用する側が頑張れ!というのでは、つくり手側がやる事がない。ならば、北浜テラスのように、つくる側から利用する側になって頑張るとか、OCATのように利用する側のニーズに寄り添うといった方法がある。もちろん高松丸亀町壱番街のガラスドームのように、街路のネットワークに組み込まれる事で、管理しづらくするといった工夫もあるだろう。


 それにしても、一連の流れには、計画し尽くさない、管理し尽くさないというメッセージが読めてしまうのだが、違うだろうか。
 そうであれば、やっぱり「反都市計画の書」と言って良いのではないか。


 いっそ『アメリカ大都市の死と生』のように喧嘩腰であれば、もっと話題になったのかもしれない。

写真は鳴海邦碩さん提供

○著者による本の紹介
『都市の自由空間』不動産協会賞受賞インタビュー


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