広井良典『持続可能な福祉社会』(2)

 引き続き、広井さんの本を紹介しよう。

人と人の関係性の再構築

 そして、もうひとつは人と人の関係性の再構築である。
 「日本人ないし日本社会は(“稲作の遺伝子”が支配する)農村型(ムラ社会)の関係性から、個人をベースとした、また見知らぬ個人同士が様ざまにコミュニケーションを取り合うような、「都市型の関係性」にその関係性のあり方を変容させる」べきだった(p215)。それをせず、都市の中のムラ社会をつくっいても大丈夫だったのは、成長拡大が続いていたからであり、それゆえ、今こそ「関係性の組みかえ」という課題に向き合わなければならない。


 いまや会社や核家族が流動化し、ムラ的な共同体の同心円が個人にまで縮小してしまっていると広井さんは言われる。コミュニティが失われたのではなく、極小化してしまっているのだ。


 まちづくりの議論のなかで、コミュニティの再評価、再強化といった主張が多いが、僕は危うい物を感じることがある。個人個人がバラバラで、自己主張ばかりしていて議論にならない。景観も気にせず、好き勝手な家を建てる・・・・。
 確かにそうなのだが、だから「昔はこうではなかった・・・・」となる人がいるのには閉口する。


 共同体でがんじがらめにされるなんてご免蒙るし、いくら町並みが綺麗でも、丁稚奉公なんてまっぴらだ。


 だから西欧的な西欧的な個人をベースとする公共意識のみが絶対かというと、興味深いのは、広井さんは人類みな兄弟あるいは八紘一宇のように共同体的な一体意識の同心円を無限に拡大していくあり方もむげに否定しないことだ。


 「独立した個人から発し、かつ他の集団に対しても「開かれた」ものであるという点で「公共性」への志向を持」(p241)ちつつ、「山の神様、川の神様といった具合に、自然のなかに、単なる物理的な存在を超えた何かを感じ取ってきた歴史」(p255)を背景として共同性のベースとしてのスピリチュアリティがあって、共同体的な一体意識と個人をベースとする公共意識が融合した、新たな関係性を考えておられる。


 西欧の都市的な関係性、個人をベースとする公共意識の背後には、普遍宗教としてのキリスト教があると広井さんは示唆しているが、「神々の国」日本では、自然の霊性への感性が土台になって新しいコミュニティを支えることもありうるのかもしれない。

続く


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広井良典持続可能な福祉社会―「もうひとつの日本」の構想 (ちくま新書)