藤井聡『正々堂々と「公共事業の雇用創出効果」を論ぜよ』(2)

失われた夢

 どうして大衆は道路をはじめとした公共事業に不信感を持つようになったのだろうか。
 政治との癒着、談合、環境破壊などなど枚挙に暇がないが、藤井さんも指摘されているように、バブル時代に、アメリカの要請に応えてやたらと公共事業を膨張させたあと、景気対策のためにさらに膨張させたこともある。


 だが、より根本的には、日本列島改造論に代表される開発型の公共事業に夢をいだけなくなったからだろう。
 それは何故か。


 一つには藤井さんが言われるように、日本列島改造論が掲げた「先進国並みの豊かさ」は実現し、夢ではなくなったこともある(p68)。


 それよりも大きいのは、「道路を通じて、村や街、地域や国を、時間をかけてより善いものにしようとする「意志」の力の欠落や衰微」(p64)にほかならない。


 藤井さんはこの意志の力の衰微を大いに嘆いておられるのだが、僕はそうは思わない。「日本列島を高速道路網で結び、地方の工業化を促進し、農村を残しながらも、過疎や過密や公害の問題を同時に解決する」という田中角栄の夢は、もう二度と国民全体の夢にはならないだろう。それに変わる土木の夢もまだ描かれていない。


 その点は藤井さんも認めておられる。
 ならば、夢がないところに意志だけ持てというのは無茶ではないか。

道路行政のビジョン

 では、これからの道路行政のビジョンはどうなのか。それは、国民に夢を与え、意志を取り戻させることができるのか。
 藤井さんは「都市レベルでは文化、国レベルでは生存」だと言われる。


 藤井さんの言う「都市レベルの文化」は、最初に紹介したコンパクトシティの議論と一緒だ。
 具体的な施策は、1)都市への自動車の流入を食い止める環状道路やバイパス、2)周辺のフリンジパーキング、3)そのパーキングと都心を結ぶ大量輸送機関、4)電柱の地中化、5)都心部の道路空間の歩道やLRTへの再配分、6)歩道の景観形成、7)都心に人を呼び込むためのモビリティマネージメントである。


 国レベルでは、1)大地震への備え、2)橋梁等の老朽化への備え、3)今後の世界不況の大波に備えた基礎体力向上のための基本的な道路網、空港・港湾整備、だという。


 そして、危機にこそ、失業の恐怖を払拭できる大規模な公共投資を緊急に行えるように、実施すべき道路政策メニューを常に吟味し、備えておくことが必要だ、と言われる。


 果たして、これで人びとが夢を持てるだろうか。
 都市レベルに限って言えば、コンパクトシティが人々の生活文化と現時点では整合していないことは、最初に述べた通りだ。マイカーの魅力は大きい。まして、その提供者は国家の基幹産業で、マスコミへの影響力も絶大だ。


 1)〜6)を実施して最高のコンパクトシティをつくっても、7)が並行して成果を上げなければ、無駄な公共事業に終わってしまう。これは一発勝負ではなく、徐々に、時間をかけて取り組むしかない。
 藤井さん自身、そう思われるからこそ、モビリティ・マネジメントに力を入れておられるのではないか。


 コンパクトシティを夢見ているのは、今のところ少数派だろう。
 未来へのビジョン、夢をどう蘇らせるか。おそらく、これは土木という分野だけからでは解けない課題だと思う。

公共事業をめぐる住民参加は不要か

 本書には、肝心の「公共事業の雇用創出効果」については、ほとんど書かれていない。
 雇用創出効果、あるいは公共の利益にとって、道路等のハード事業が、福祉産業や教育等々の別の施策と比べて、よりよい選択なのかどうかは本書では分からない。


 藤井さんは家族や家庭を大切に思うなら、その未来を信じるなら、家を持つことによる様々な可能性を信じ、家を持とうとするだろうと言われる(p62)。それを敷衍して道路計画への意志を「まちづくり」「くにづくり」にかける意志だと言われるのだが、本当だろうか。


 家族や家庭を大切にしようと思うから、その未来を信じるからこそ、家などに投資せず、子どもの教育にかける人もいるだろう。あるいは、自らの事業の成功に一切をかけるかもしれない。毎年の海外旅行や観劇に蕩尽する人もいるだろう。


 家族のように比較的安定した価値をもった場ですら、選択肢は一通りではない。


 まして、土地神話が崩壊した今、ガタのきた家と高いローンに困り果てている人も多い。「家」を持とうとすることが共通の夢と言えるだろうか。
 別のものにかける自由も我われは持っていたい。


 同様に、道に費やすか、教育や研究に費やすか、はたまた借金の返済を優先するか、法制度上の手続きを踏んでいたとしても、なるべく早期に、他の選択肢も含めた検討の機会に関わりたい。そこで、納得のいく説明を得たい。

 もちろん大事なことは投票で決めるべきだが、それで全て済むわけではない。

 藤井さんは「法制度上、公共の利益を増進するであろうと微塵も見込めないような公共事業を実施することはおおよそ不可能」だと言われるが、その事業の社会的費用と効用を勘案する戦略アセスメントは未だに組み込まれていないことは8月9日に紹介した原科さんの講演会で紹介されていた通りだ。

 そしてまた、事業の計画段階での住民参加は、失われたビジョンを再構築していく大切な機会になるのではないか。
 マスコミを介さずに、人びとと直接会話できる機会を厭う理由はないはずだ。

コンクリートからソフトへ

 僕は「コンクリートから人へ」に希望を感じた。
 上記の講演会で、原科幸彦さんが「コンクリートからソフトへ」と言って、環境アセスメントの普及による技術者、計画者の雇用拡大を訴えておられた。


 なるほど、「コンクリートから人へ」より「コンクリートからソフトへ」のほうが、僕もの感覚に近い言葉だと思った。


 これからはどの事業をやるか、やるとしたらどうしたら最小の費用で最大の効果が得られるか、とことん考えるべき時代だろう。それには考える人や時間、お金が要る。また参加のためのお金も技術もいる。
 そういうことにお金を使おうという時代は、来ないものだろうか。

(おわり)



 
今日は京の地蔵盆