好井裕明『「あたりまえ」を疑う社会学』(2)

 今日はいよいよ、「あたりまえ」を疑うの真骨頂、普通であることとは何かについての議論だ。

語り出す

 大阪の同和地区の識字学校の方々の文集に、好井さんは「一つ一つが、書かれた人の生活に根ざし、生きてきた力が感じられる」という。文字を書くという力をはじめて手にしたとき、書かれた手書きの文字。「一つ一つに〝熱〟があり、確実に書き手の〈息づかい〉が伝わってくる」(p161)という。


 働くゲイとレズビアンの会が、東京都立「府中青年の家」での利用団体の交流会のさい、入浴中を覗かれたり、食堂でホモ、オカマという言葉を投げつけられたりした。・・・世の中に流布している同性愛者はこんな奴らだという決め付け。それは彼ら同性愛者として生きている彼らの現実からかけ離れたものであるにもかかわらず、同性愛者のことを(人びとは)饒舌に語ってゆく。・・・同性愛者であることを受け入れながらも、世の中にある決めつけや否定的な評価に影響され、自らの存在とは何なのかを悩みながら生きている自分たちの姿があった。決めつけやからかい、蔑みに対して、自分はそのような存在ではないことを積極的に語りだし、同性愛者であることを肯定的に語りだす困難に、彼らは直面したのである(p166)。


 そして彼等は施設に問題提起をし、その対応も不誠実であったので、裁判を起こす。


 「私たちは、彼らが「語りだす」多様な実践にきちんと向き合い、〝彼らに怯え、彼らを排除する現実〟を少しでもいいから崩していく必要がある。そこにこそ、彼らの「語りだし」を調べる意味がある」(p171)と好井さんは言う。


 今、僕たちはブログだのなんだので、豊穣に書く機会を持っている。何億ページという文章が、インターネットには蓄積されているという。しかし、かけがいのない何かを書き得ているのだろうか。「それを読みたいと思う人びとによって、その意味が確かにものに(p176)」なっていっているのだろうか?。

「あたりまえ」を疑う

 「現代の社会学には私たちの暮らしの大半を被っている「あたりまえ」の世界を解きほぐして、そのなかにどのような問題があるのかを明らかにしようとする営みがある」(p180)。それがエスノメソドロジーと呼ばれるものだ。


 それは「人々の〝生きられた秩序〟〝生きられた規範〟のありようを解読」しようとする(p191)。


 たとえば好井さんの息子は保育園でのままごとが嫌いだったという。お父さん役をやらされるのだが、テーブルの前にあぐらをかいて座り、タバコを吸い、新聞を広げて、ご飯ができるのを待つ。そんなことをさせられるという。だが、彼の父親、好井さんはこういうことをまったくしない。だから保育園で要請されたお父さんのあり方に、強烈な違和感を覚えたのだという。


 この話、いまどきこんな絵に描いたような父親がいるのかと僕は思う。相変わらず働き中毒で、お父さんは子どもが起きている時間には家にいないんじゃないかとも思うが、それではままごとにならない。だから好井さんのように台所にたつ父親も、不在の父親も否定され、これってサザエさん?、というような世界が規範として染みこんでいく。


 こういったカテゴリー化は、日々再生産されていく。
 たとばワイドショーやニュースショウーのなかのドキュメンタリーなどは、その典型だろ
う。
 好井さんはある福祉施設の職員の素晴らしい努力・アイデアを取り上げた番組を批判し、地域福祉実践の意義を伝えようとするあまり、障害者を一人ではなにもできない存在として描いているという。
 このようなカテゴリー化によって、「「すばらしさ」が見る側によく伝わる構成になっている」(p207)。「そして個々のカットやナレーション、BGMが見ている私に行使しようとしている力を感じ取ったのだ」(p208)。


 このような例は枚挙に暇がない。
 良くできたものほど、その裏で多くの物を捨てている。そして、このような行使されようとしている力が、人びとが見たいとおもう物語に近ければ近いほど、受けいれられやすい。


 僕だって、著者が書きたいというゴチャゴチャした目次案、何が言いたいのか分からない草稿をみたら、「もっとすっきりしろ」と言う。そうしなければ伝えたいことが伝わらないし「だいち読まれませんよ(売れませんよ)」と言う。
 そして「そんな話は受けませんね」「こういう風に筋書きをつくると、こういう人たちが読みたがるんじゃないですか」とか。


 そんな工夫、単純化は世の中に溢れている。それが物事を単純化しすぎだと感じても、伝えるためには、読んでもらうためには、売れるためには、切り捨てなければならないこともある。実際、頭のなかを全部ぶちまけたような番組、本を、見てくれる人、読んでくれる人などめったにいないし、僕も見たい、読みたいとは思わない。

 だが「そこには〝恣意的な決め付け〟を要請する「支配的な文化」で生きている、圧倒的な稜のカテゴリーが満ちているのである」(p205)。
 だから、単純化の裏にある切り捨てられたものを感じる想像力もまた必要なのだし、「あたりまえ」を疑う学問の価値があるのだと思う。

「普通であること」に居直らない

 池田小学校の事件が起こったとき、事件当日、テレビ各局は事件を体験した子どもの様ざまな声をこぞって報道した。

 そのなかで各局とも使ったのが「犯人は金髪やった」というコメントだったという(p217)。ほれみい。やっぱりこんな事件を起こす奴は普通やないんや。やっぱへんな奴や、と思いたい人びとに、テレビは安心のきっかけを与えたのだ。

 普通とは、僕たちが理解不可能な出来事に出会ったときなどに、自分たちの日常世界から、それをくくり出す装置だという(p218)。とても便利な精神的社会的安全弁なのだが、好井さんは、その普通には中味がない、空洞だという(p219)。金髪の人が犯罪を起こすということが論証されるとは誰も期待していない。「ただあの男は普通ではないという大きな声が、普通であることの空洞に響き渡るだけなのだ」(p219)。


 好井さんは触れていないが、犯人が精神科通院歴があったことが分かると、報道も世間も飛びついた。一時期は、精神病患者は普通じゃない、みんな危険みたいな報道と気分が蔓延していた。


 世の中には普通でない出来事、普通でない人びとが満ちている。
 しかし僕たちはそれに正面から向き合うことをせずに、時々に、都合のよい普通をつくりあげ、普通でない人びとを適当に区切り、世界から切り離そうとする。そして理屈に困ると、あんたは普通じゃないからと切り捨て、自分は何者であるかを明らかにせずに、空洞の普通に逃げ込む。


 その典型例が、好井さんが紹介している部落解放運動の当事者と評論家との対談での評論家の言説だ。
 「僕はひどい差別を受けたことも、したこともない普通の人間ですから、その立場からお尋ねしたい」(p222)。
 この評論家には、差別はまったくの人ごとだ。万が一にも、自身の関わりを問われることがないよう、普通の人間だから差別されたり、したりするはずがないという防壁をめぐらせている。


 好井さんは触れていないが、僕が何よりも残念なのは、この評論家をはじめ多くの人が、自分がある日突然、普通でない側に区分されるかもしれないという、恐れを忘れている、忘れたふりをしていることだ。
 そうであるかぎり、普通は永遠に獲物を追い続けることが出来る。普通は化け物だ。


 そして、普通は、単に哀れな犠牲者を血祭りに上げるだけではない。
 好井さんは、顔に赤い大きなアザがある石井さんと、彼のユニークフェイスという運動の本を取り上げ、逆説的に、普通であることの陥穽を指摘している。

 大きなアザがある、確かに普通じゃないね。肥満度125、そりゃ普通じゃないね。まだタバコすっている。それって普通じゃないね。・・・・

 「普通であることに呪縛され、普通になろうと駆り立てられる姿は(p232)」、いま日本中を被っていないだろうか。


 「普通は願望に囚われた人が、勝手に〝空洞〟のなかで自分の身体や容貌はこれでよいのかと叫んでいる。しかし普通の〝空洞〟では、問いかける声が反響」するだけだ。そして「〝空洞〟に囚われ叫んでいるかぎり、そこから逃れ出ることはできない」(p233)。


 「いま若い社会学者が、こうした現実に入り込み、そこで生きている「人々の社会学」を精力的に明らかにしている。彼らの仕事は、まさに「普通」という〝空洞〟への囚われ、「普通」」への信奉が、いかに「普通でないか」を例証する営みであり、「普通」から私たちが解放される方途を模索する、興味深い作業」(p236)だという。


 大いに期待したいし、また社会学者のような緻密な調査、思考はできないとしても、普通であることに距離をおくことを日々忘れずにいたい。


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